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第五章 矛盾しながらも統一する矛盾的自己同一 [39]自我と疎外・分離の影とは矛盾的自己同一なので疎外回復・統合が必要

[39]自我と疎外・分離の影とは矛盾的自己同一なので疎外回復・統合が必要
[一緒に一つの作業を協同でさせると群集はまとまる]
◎背景(地)が動かないとき、動く図どうしは前景としてまとまると見える。逆に背景が動くとき、動かない図どうしがまとまると見える。つまり行動を共にするものどうしはまとまりやすい。群集をまとめるとき、ゲームを一緒にしたり、一つの作業を協同でさせたりする。一つ(一人)の動きを見つめるとき、観衆は一体となる。
[外部に敵を作り出して心を結集させる]
◎時には外部に敵を作り出して心を一つに結集する、内憂(内部の不満)を外患(外部の攻撃目標)に切り換えるために仮想敵国を作り出す。これは政治家やリーダーがする常套手段である。とはいえ、私たちも日常的にこの手段を利用しているが。
[一つにまとまるとき一体感を感じる]
◎群集(家族でも)が一つにまとまるとき一体感を感じる、一体感を感じるとき喜びを味わう。逆に除け者にされたという疎外感は分離しているという悲しみの感情であり、欠乏の充足を求める。時に除け者にした人々に対して怒りや憎しみの感情を抱く。
[自己疎外は内部矛盾の反対物を外化・分別する]
◎自己疎外は、矛盾的自己同一である自分の一部分(無意識・影・肉体)を意識外に出す(抑圧する・無視する)ことによって自分と対立・葛藤する他人(極端には敵)となる。自我(主体)と自己(環境・自然・無意識・肉体)とが切り離される現代の問題は、自我(競争原理・分離機能)の優位が強すぎて精神(意識)が内部矛盾の反対物を疎外(外化・分別)する。
[放蕩息子や悪人こそは帰還させるべき相手である]
◎聖書(ルカによる福音書)に登場する放蕩息子は、心理学的に解釈すれば、自我が追放した「影」である。彼の帰還は、追放した影を同化させる疎外回復である。顕在力と潜在力とが均衡した時点で反転する。大きく後ろに振れたブランコは反転の後前へ大きく振れる。作用した分だけ反作用する。放蕩息子の帰還のように、仏の仕事(救済)はバラバラになったものを一つに統合する。平和とは手をつないで輪を作る統合である。
親鸞は、「歎異抄」で、「悪人正機」(悪人こそ阿弥陀仏の本願に救われる対象である)「善人なほもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という。性善説からいえば、極悪人はもっとも不幸な人間である。家なき里で嵐に見舞われた人のように。自分の力ではもはや立ち上がれないような人のように。
[隣人・敵も同化(愛)すべき対象である]
旧約聖書は「己の如く汝の隣人を愛すべし」といい、マタイ福音書(新約聖書)はさらに強烈に「敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。そうすることでのみ、あなたたちは天の父の子となることができる」という。
[愛は合いから始まる]
◎神仏は、自身から遠く隔たった者を呼び戻す、離ればなれになって者を手と手をつなぐ。それと同じ行為をする者は神の子・仏の子である。愛は合いであり、合いから始まる。日本語でも「あい」から始まるが、英米人も真っ先に「アイ」という。
[自分に属すものは善で、他人に属すものは悪になりやすい]
◎自分の中にある認めたくない嫌な部分(悪・衝動・感情・考え)を他人に投影(放り出し・疎外)させて、他人が抱くと思い込む。精神は空間を(時間も)知らない。個人内で行うことを、個人間でも行う。これは個人の場合だけでなく、集団・社会・国の段階でも起こり得るし、歴史はそれを証明済みである。いじめも往々にして「自分はいい人、あの人は悪い人」思考が働く。とかく人は分別する。
[疎外したものと和解・統合・愛することで成長する]
◎本当の敵は目の前にいる外部の敵ではなく、心の内部に住み着く自己疎外した無意識・影である。それは本来一つであったものを自己疎外することによって分離したものである。あらためてそれとの和解・統合・愛することで人は成長し、ついには「天の父の子」となる。
[あらゆるものが両面性(裏表)を持つ]
◎あらゆるものが矛盾的自己同一(両面性)を持つ。自分のものとして取り入れた方を表とすれば自分のものではないとして捨て去ったものが裏(影)である。疎外(外化・分離)した影の力が強くなりすぎると、表の人格がぐらつく。小さな入れ物は少し外から揺すられると、大きくぐらつく。倒されてもすぐに起きあがれるダルマさんのようになりましょう。
[自我拡大=疎外回復]
◎ぐらつきから立ち直るためには、自我拡大(真の解決は無我であるが途中段階として)という疎外回復をはかる。だるまさんはどんなに揺すられても元通りに起き上がる。人格を拡大し豊かにするには、影の中に肯定的な面を見出して取り入れてゆく。例えば、東洋と西洋はともに相手に対して矛盾的自己同一であり、お互いに相手が自分の影であるから、相手を自分たちに取り込む時期に来ている。