宇宙原理があなたの中を貫流する

このブクロを通じて宇宙を網羅する基本法則を提示していきたい。

第八章 集団(全体・自己)と個人(部分・自我) [54]意識(自我・部分)は無意識(全体・無我・無心)の一部分である

[54]意識(自我・部分)は無意識(全体・無我・無心)の一部分である
[流れて途切れることのない無意識・無我・無心と一時停止の意識]
◎意識は動作停止(ビデオでいえば一時停止)であり、スチール写真であり、四コマ漫画である。それに対して、無意識・無我・無心は流れて途切れることのない、雑念・欲心(自我)がなく自我が作り出した刺激に反応しない、熟達によってもはや意識を働かせる必要がない、心(気)を身体全体に行き渡らせ滞りがない自在の境地であるがまま(我がままの反対語)に行動し得る。
[自分を棄却し去った空却心]
◎ドイツの神秘主義エックハルト(1260頃-1327)はいう、「空却した心とは、なにものによっても乱されず、またなにものにも繋縛されることがなく、また自分にとって一番望ましいことを(意識作用の)いかなる様態にも結びつけられるようなことがなく、またいかなる事柄においても自分の個人的観点を顧慮するようなことが一切なくて、ただ只管に神のこの上なく愛すべき意志のうちに没入し、かくして自分のものを棄却し去った心」と。
[空却心=無我・無心]
◎「空却した心」は、仏教での無意識・無我・無心とほぼ同じ心境であろう。仏教とキリスト教という違いはあるけれども、「わけ登る麓のみちはおほけれど同じ高嶺の月を見るかな」である。とはいえ、エックハルトキリスト教の主流(幹)派ではなく枝派に属すが。
[主観的自己を没すると客観的真理が得られる]
◎「動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し客観的となるに由って得らるる」と、西田幾多郎は「善の研究」でいう。
[主観を消去した上での客観は未合理・合理・超合理のすべての真理を含む]
◎彼のいうこの言葉は、同じ階層にある主観(自我)に対する客観(合理)ではなく、主観(下位階層・自我)を消去した上での客観(包越する上位階層・自己)である。主観が捕らえる客観は同一階層上にある合理的なものしか含まない。主観は主観に属す階層までしか捕らえることができない。
◎所が、主観を消去(没)した上での客観(動かすべからざる真理)は未合理(感性・感情)・合理(知性)・超合理(無意識)のすべて(の階層)を含む(直観する)。ではその客観は誰が捉えるのかという疑問は残るが。
[自己と神の間には自我が介在・仲介・媒介する]
◎「我々の自己は、唯、死によってのみ、逆対応的に神に接する」と西田幾多郎はいう。プロティノスは「汝自身に帰れ」といい、ソクラテスは「汝自身を知れ」という。
◎自我という(俗世間では必需品だが聖界にあっては)偽の我を殺し尽くして一度この世の欲望から死に果てた後に蘇ると神が現前(眼前・直接)する。俗世界を映し出すスクリーンを取り払うと神に面会できる。そしてプロティノスソクラテスはそれが汝だと叫ぶ。その汝と対面するのは難事であるが。
[仲介者を取り払うと自己と神は直接する]
◎偽我の死によって介在・仲介・媒介する自我なくして直接に主客[汝自身=真の自己=宇宙本体=神]が合一する、自己は神に接する。それ故、神と自分とを隔てる壁(自我)はたたき壊さなければならない、東西ドイツを隔てたベルリンの壁の崩壊の如くに。
[無意識は、意識がないのではなく、焦点化されていない意識]
◎意識は全体の一部(部分・要素・特殊)に意を注ぐが、どこにも特定の場所に注意が注がれていないなら無意識である。つまり無意識は、意識がないのではなく、焦点化(主観的視点取り=志向性を持つ意識)されていない意識(空却心・自分放棄心)である。心はその時無我・無心・無意識におおわれる。それによって「動かすべからざる真理」が得られる。
[無意識は経験をしている人格の発生源]
◎意識と無意識について、ユングはいう、「夢の目的は、自我-意識と無意識との関係の逆転をもたらし、無意識を現実の経験をしている人格の発生源として示すことにある」と。
[無意識が意識を一要素として持つ]
◎意識と無意識とは対立・独立するのではなく、意識は無意識の一部分(領域)である。意識が無意識を持つのではなく、ユングのいうように、関係の逆転、無意識が意識を一部分・要素として持つ。
[流れの阻止が固有意識を意識と無意識とに分割する]
◎千葉胤成は「固有意識」という。固有意識=意識+無意識で、流れの阻止が固有意識を意識と無意識とに分割する。河の流れ(無意識)をせき止めると意識(ダム)が立ち現れる。無意識の中から意識が立ち現れる、海底火山の噴火によって島が誕生するように。
[明白なものは意識にまでのぼらずに無意識的(自動的)に行われる]
◎明白な(そごを来さない)ものは意識にまでのぼらないで、無意識的(自動的・自律的)に行われる。ニュートンは、物体が外力(物体外からの力)の作用(支配・影響)を受けない限り同じ運動を続るという「慣性の法則」を提示した。
[明白とは合致・同一・同一範ちゅうだという]
◎所が、明白(判別・処理可能)でなければ、自動的な流れが中断して、意識が立ち現れる。明白とは解釈が、あるものが自分の持つ知識倉庫内の情報と合致する、同一である、同一範ちゅうに入ると見なす。
[下位機能(無意識)の知識体系では判断が下せないと上位機能(意識)が行う]
◎意識に入るのは、物理的表現を使えば、二つの物が一致せずに、摩擦・抵抗・不一致・差異が生じるからである。その結果、下位機能(無意識)が持つ知識体系では判断が下せないので上位機能(意識)に判断をゆだねる。下位機能が十分な知識を持たず体系化できない間は、意識が専従する。
[流れの中に杭(自我)を立てると苦痛や怒りが生じる]
◎自由は、自然必然の流れにまかせる。自然の流れに逆らうと苦痛を感じ、強制されると怒りを感じる。苦痛や怒りは流れの中に杭(自我)を立てると生じる。杭がなければ、苦痛や怒りの渦は発生せず、ただあるのは自然の流れ(自由・無為自然)だけである。
[自分一人の自由か全体にとっての自由か]
◎人間に関する自由は、思うままにふるまう、制約・拘束をうけないことだが、自分一人だけの自由と見れば、我がままの自由になる。そこに他人との摩擦が生じもはや自由ではなくなる。
◎しかし全体(要素全員)が自由に障害なく流れる自由は自然必然の自由となる。自分だけの自由(我がまま)か全体にとっての自由(あるがまま)か。
[自分が持つ性質・機能・能力を発揮するとき機能的快感(充実感)を得る]
◎自然は、本来的に持つ性質・機能・能力に従う。個々のシステムは自分が持つ特質(性質・機能・能力)をより大きなシステムが維持されさらに発展する方向に最大限に発揮するとき機能的快感(充実感)を得る。
[相手に充実感を感じる機会を提供するのが愛である]
◎部分的にではなく、全体的に能力を発揮できているときに充実感を感じる。力がみなぎっている、あふれているという満足感である。人はそのような状態・機会を得たいと願う。他人を生き生きと(自由に)活動させる状況を創り出す・提供するのが愛である。
[精神発達は統合と分岐・分化のとどまることのない循環によって進む]
◎(固有)意識の全領域は統一的全体をなすが、収縮・伸張も可能である。精神(意識)発達は統合と分岐・分化のとどまることのない循環によって進む。ミミズが体を伸ばしたり縮めたりしながら前進するように。
[無意識は意識と対立や補償を行う]
ユングによれば、無意識は意識と対立(分岐・分化)したり、補償(統合)したりする。無意識による補償は、陽極まれば陰に反転することから生まれる、(裏面化して)見えないもの・足りないものを補う。向こうに振れた振り子は必ずこちらに返って来るように。
[意識と対立・補償・矛盾する無意識内容を取り入れることによって天秤は回復する]
◎統一力は対立物の統合を迫る。意識の方に大きく傾いた天秤は平衡の回復を希求する。天秤が大きく傾くのが挫折、問題、病状である。
◎これを弁証法的に展開させる、意識(正)と対立・補償・矛盾する無意識内容(反)を取り入れる(合)ことによって回復する、そうすることで、天秤はふたたび均衡に復元する。なお分岐(反)と補償(統合)も弁証法的展開である。
[自我の非常に弱い人は意識と無意識が逆転する]
◎自我の非常に弱い人は逆転する、無意識の方に大きく傾く、潔癖症の少年のように症状(無意識)に振り回される。取り入れる容器(自我)が小さい場合には、自動的な反転は望み得ない。まずは自我(現実感覚)を育てることから始めなければならない、そうでないと、現実世界に戻れない。