宇宙原理があなたの中を貫流する

このブクロを通じて宇宙を網羅する基本法則を提示していきたい。

第八章 集団(全体・自己)と個人(部分・自我) [56]梵(普遍・全体)と我(特殊・部分)は一如なり

[56]梵(普遍・全体)と我(特殊・部分)は一如なり
[分割された部分がもとの図形と相似で、全体の縮小図であるフラクタル]
1)宇宙は一つの巨大システムで、そのシステムの下位にある各要素もシステムを成すフラクタル(自己相似性)である。フラクタルは全体を分割された各部分がもとの図形と相似で、全体の縮小図である。さらに各部分を再分割してもやはり依然として全体の縮小図である。母胎内の胎児が母親の縮小版であるように。
[部分画像から全体像が復元可能なホログラム]
2)ホログラム(完全写像)はレーザー光線を使って立体画像をプリントする。そこには光の強さと位相が記録される。それにレーザー光を当てながら再生すると三次元の立体画像が見える。
◎画像のどの部分も全体像の情報が含まれ、部分画像(一断片)から全体像が復元可能である。部分画像が小さくなればなるほどぼやけた像にはなるが、部分(特殊)は全体(普遍)の情報を持つ。
[宇宙の根本原理である梵と自我の原理である我とは同一]
3)インド哲学の中に、宇宙(自然世界)の根本原理である梵(ブラフマン)と、自我(個人)の原理である我(アートマン)とが同一(一如)だという正統バラモン教の思想(梵我一如)がある。その同一性を悟る(直観する)ことによって解脱が得られると説く。
[我は人間の魂に分有された梵]
◎梵は、知性ではとらえられない「本来の自己・宇宙根源・宇宙創造者・最高原理」である。我(アートマン・意識・自我)は、人間の魂に分有されたブラフマン(のかけら)である。部分と全体は、ホログラムのように、部分画像から全体像が復元可能であり、フラクタルのように、部分はもとの図形と相似で、全体の縮小図である。
[生物も気から現れ出て、息を持ち、死んだ後には故郷の気へ帰還する]
4)日本ではどの生物も気(普遍的宇宙霊)から現れ出て、息(=生き、個人霊)を持ち、死んだ後には故郷の気へ帰還すると信じられた。気=梵で、息(個人を支える生命力)=我という平行関係が成り立つ。これは中国の思想的影響を強く受けているが。
[客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一]
5)「我々の思惟意志の根底における統一力と宇宙現象の根底における統一力とは直ちに同一である」と、さらに「客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である」と西田幾多郎は「善の研究」でいう。
[それぞれは同一現象を異なった言葉で語る]
◎思惟意志の根底における統一力=主観的意識の統一力=我(アートマン)=息、宇宙現象の根底における統一力=客観的世界の統一力=梵(ブラフマン)=気と見なせる。表現は異なっても意味する指し示すものは同じだろう。
[絶対心が生滅相対心を通して動く]
6)鈴木大拙はもっと具体的にいう、「この絶対心の自心が生滅相対の心を通して動く」と。動くとは、「一切善悪の世界が現れる」とか、「世間および出世間の一切万法が生滅する」と。絶対心は「相対心に沿うて分別の世界に流れ出る」と。
◎絶対心(梵)が生滅相対心(我)を通して善悪世界・分別世界として現れ出る、生滅する。
[宇宙万物(大日如来・梵)と人間(我)とが同一不二]
7)どちらかといえば小乗的な密教は「五輪観」・「五輪成身」という言葉・修行法を持つ。五輪は、地水火風空の五大要素で構成される宇宙万物(大日如来)と、両手両足頭の五体で構成される人間との両者を言い表す。宇宙万物(大日如来・梵)と人間(我)との両者が同一不二だという。
[自我放棄をすれば、神(梵)は一人称・自我・神自身として存在する]
8)ラーマナ・マハルシは、神と人間の関係をいう、「あなたがそれらすべてを放棄して神のみを求めるとき、神は一人称として、自我として、それ自体として存在する」と。
◎神(梵)は私たちが自我放棄をして神に完全帰依する(神のみを求める)時、一人称・自我・神自身として存在する。
[神が人間を造ったのは、我々が神となるためである]
9)アレクサンドリアの司教・神学者アタナシウス(295頃-373)はキリスト教における「人=神」の教義についていう、「神が人間を造ったのは、我々が神となるためである」と。
◎彼は正統派に属しているが、さらに父なる神と子なるキリストは同質であるとも主張した。同質とは仏教での一如ではないのだろうか。これは梵我一如のキリスト教的表現であろうか。
[あなた方は神々であり、同時にいと高きものの子らである]
10)旧約聖書詩篇(古代イスラエル民族が神を賛美した150編の詩集)はいう、「私は言った、あなた方は神々であり、同時にいと高きものの子らである」と。
◎あなた方(人間)は神そのもの(梵)であると同時にその子(我)でもある。これも梵我一如のキリスト教的表現であるように思える。
[神は肉体に宿り、心の働きをつかさどる霊である]
11)新約聖書ヨハネ福音書第4章はいう、「神は霊である」と。
◎神(梵)である「霊」は、肉体に宿りそれに働きかけ生命を授け、さらに心の(精神的生理的)働きをつかさどり、目に見えず合理的理解不能な不思議な(肉体と精神とへ)働きを示す。
[両者が一なるものの内で合一される]
12)エックハルトは「神の慰めの書」でいう、「同等性は一なるものから流れ出て、そうして一なるものの力によって、また一なるものの力が及ぶ範囲において、引付けたり、誘い寄せたりするのであるから、その故にそれは引付ける側のものにとっても、引付けられる側のものにとっても、それらが一なるものの内で合一されるに至るまでは、双方ともに安らぎを見出すことも、満足を得ることもできないのである」と。
[合一が安らぎと満足をもたらす]
◎引付けたり、誘い寄せたりする一なるもの(同等性)の力(統一力)を持つ「一」(梵)と力を受ける側(我)との合一が安らぎと満足をもたらす、母とその胸にいだかれた幼子のように。
[五感・知覚・思考の根底・背後で働く根源的で統一的な感覚・認識能力]
13)共通(一般)感覚は、五感・知覚・思考の根底・背後で働く根源的で統一的な感覚・認識能力で、思考・感覚機能が停止して無を体験中でも残る。仏教では、五感を統一する第六識(共通感覚)を意識(普通の意味の意識ではない)と呼んだ。これが内省する主体である。
[ベルグソンは感覚も記憶も現在意識も消滅させる]
14)ベルクソンは「創造的進化」でいう、「私は、目を閉じ、耳を塞ぎ、外界からやって来る諸感覚を一つ一つ消していこう.....それでも私は持続する。私は存続せずにはいられない.....ぎりぎりのところ、私は記憶を追い払い、直前の過去までも忘れることができる。少なくとも私は極限の貧しさまで切りつめられた私の現在についての意識を保持している.....しかしそれらも退けよう.....それらは、すべてがすでに失われた闇のなかに消滅する。だがそうはいかない。私の意識が消えた瞬間に、別の意識に灯がともる−いやむしろすでに灯がともっていたのである」と。
[感覚(五感)・知覚・思考を消すと、ブラフマンの意識と接触・合一できる]
◎「私の意識」(自我)が消えた瞬間に、「すでに灯がともっていた」のは、共通感覚、我である。感覚(五感)・知覚・感情・思考・意志(即ち自我)を消すと、ブラフマンの意識(梵)と接触・合一できる。私の接続プラグ(我)をブラフマン意識のコンセントに差し込むと、そこからブラフマンのエネルギー・情報が私に流れ込む。
[瞑想は一体感(合一体験・神秘体験・宇宙意識への没入・悟り体験)へと至る]
◎宇宙意識・宇宙霊(全生命・秩序の根源・梵)は、人間に宇宙との一体感をもたらす。エックハルトのいうように、人間は安らぎと満足を求めて宇宙意識との接触・合一を希求する。瞑想は、注意集中→没入→無我(自我放棄・自我無化)→一体感(合一体験・神秘体験・宇宙意識への没入・悟り体験)へと至る。そのことによって、他者への慈愛心が確立し、宇宙秩序の中に生きる。

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