宇宙原理があなたの中を貫流する

このブクロを通じて宇宙を網羅する基本法則を提示していきたい。

第八章 集団(全体・自己)と個人(部分・自我) [57]コペルニクス的転回=主体(自我と自己)の入れ替え=視点の転換

[57]コペルニクス的転回=主体(自我と自己)の入れ替え=視点の転換
[天動説(自我・地球中心)から地動説(太陽・宇宙中心)へのコペルニクス的転換]
コペルニクス的転回は、天動説(自我中心・地球中心の世界像)から地動説(太陽中心・宇宙中心の世界像)への大転換である。
コペルニクス(1473-1543)は、ポーランド人で、聖職に就きながら天体観測を続けた。その観測結果(これだけからではないが)から皮肉にも自らの立脚地であるキリスト教的宇宙観をひっくり返す地動説を提唱した。それはやがて新しい世界観確立と近代科学成立の契機に変貌した。
[古代ギリシアの学者がすでに地動説を唱えた]
◎実際にはコペルニクスが最初に地動説を唱えたのではない。ピタゴラス派(紀元前5〜4世紀頃)(フィロラオスが有名)は天界の中心に太陽ではないが中心火があり、地球は他の惑星と同様にその回りを円運動するとの説を立てた。
[アリスタルコスは公転と自転とをする他動説を提唱する]
◎さらにアリスタルコス(前310頃-前230頃)は古代ギリシア天文学者で、地球(と惑星)は太陽を中心として公転しまた自転もするという地動説を唱えた。
[機が熟さなければ決定打とはならない]
ピタゴラス派とアリスタルコスはあまりにも時期尚早であった、残念。コペルニクスの登場は十五世紀である。待つこと二千年、ゴドーはついにやって来た。機が熟さなければ決定打とはならない、頂門の一針とはならない、ハチの一刺し程度である。外堀が埋められ、内堀が埋められた後でないと天守閣は落城しない。弓矢を一二本打ち込んだぐらいで形勢が反転することはない。陰陽の反転も臨界現象も悟りもいつでもということはなく、機が時熟するまで待たなければならない。
[幼児は自分の視点以外に、別の視点があり得ることを理解できない]
◎幼児は自分の視点以外にも、別の多くの視点が存在することを理解できない。他人の立場・客観的立場・第三者的立場に立つことができない。同様に自分中心的な人は、自分の視点を持つこと、他者には他者独自の視点があることに無自覚である。そもそも固定した視点が存在すること自体にすら無自覚である、余りにも当たり前すぎて。
[人は挫折を経験して初めて自覚する]
◎私たちは挫折を経験して初めて知る。挫折を経験するまでその存在にすら気づかないことも多い。自覚は、立ち止まって自分と相手とをともに見渡せる一つ上の階層に登って眺める、自分と相手とを統合・止揚する立場に立つ。
[脳内には自分中心的空間ニューロンも外界中心的空間ニューロンもある]
◎脳内には自分中心的空間認知回路も外界中心的空間認知回路もある。下頭頂連合野は自分中心的空間(遠近法的空間配置・天動説)の認知と記憶を担当し、前頭連合野は外界中心的空間(地動説)の認知と記憶に関与する。
[人称の使い分けには視点の移動が必要である]
◎私"I"やあなた"you"の使い分けは視点の移動が必要である。「私は花子です」−「あなたが花子さんね」。「私」は「あなた」ですか。「私」という言葉は私だけではなく、話し相手もさらには誰でもが使う。つまりすべての人が「私」である。所が、名前を使うと視点は固定されたままでもよい。「瞳ちゃんはいくつなの」−「瞳はね、二歳」。
[全員が自分を「私」・「僕」といえる]
◎自分を「瞳」(特殊)といえるのは自分一人だが、全員が自分を「私」・「僕」(普遍・共用語)といえる。自称語(共通語)は、自分は集団(普遍・全体)の中の一人(特殊・部分・要素)であることを意味する。カラオケでマイクを握ったら離さないのは瞳ちゃんであり、私やあなたは交代しながら順番に使い合える。「私」と「あなた」のキャッチボールができる。
[人称語の使用は自分の中に他人が住み始める第二歩]
◎人称語の使用は自分の中に他人が住み始める第二歩目である。もちろん第一歩は母親である。自我の拡大は自我の下位階層が分岐してさまざまな下位機能が生まれるが、自我は依然として個人の中心に存在する。
◎西洋はこのような自我の拡大を目指すが、東洋は自我の解体をもくろむ。とはいえ、そもそも東洋では個人内に体系的自我システムが生まれないことも多い。近代化した今となってはそうともいえないが。
[情報をまとめていくには、一つの視点が必要になる]
◎視点について別の視点から述べる。実験・観察から得られた生の情報は混沌として、優劣・軽重・異同の判断はたやすくつかない。それらの情報をジグソーパズルの一つの絵柄のようにまとめて全体像を描いてゆくには、一つの視点(基準点)が必要になる。その視点が階層の最高拠点に位置し、そこを基準(核)に階層構造的にすべての情報が連続的につながる。
[まとめるには核・中心・鍵言葉などが必要である]
◎このようにまとめるには核・中心・目標・法則が絶対に必要で、核が得られない間は要素・資料・人はバラバラの混沌・無秩序のままである。ワープロの言葉は横へは、「あいうえお」順で、縦へは時系列で整理される。漢字は画数順で並べられる。
[同じ情報群であっても、基準が異なれば、違ったまとまりが出来上がる]
◎逆に同じ情報群であっても、核とする基準が異なれば、違った階層構造的まとまりが出来上がる。例えば、同じ資料群を異なった視点・観点を持つ五人にまとめさせると、五通りの結果が提出されるだろう。個人に個性が生まれるのはこの点である。情報が人を造る。
[個人は自我の下にすべての経験・感覚情報をまとめ上げる]
◎混沌・無秩序の資料・情報を一つの視点(核)の下にまとめ上げるように、個人は自我の下にすべての経験・感覚情報・知識などをまとめ上げる。というよりも、そのような情報を束ねる最高拠点にある存在を自我と呼ぶ。それ故に束ねられた経験・情報は自我という核を取り去ると解体・崩壊・混沌化する。
[視点を固定する(相対化する)から判断できる]
◎「上り坂は下り坂」。坂の下にいる者には上り坂であり、坂の上にいる者には下り坂である。「水は流れず、橋は流れる」。流れる、流れないはどこかに視点を固定(相対化)するから判断できる。流れるとは、ここからそこへとなめらかに移動する。
[固定した視点を取り外すと判断できない]
◎固定した視点(自我)を取り外せば、ここもそこもなく、「流れる、流れない」の判断は下せない。というよりも、判断主体(自我)そのものが(一時的か永久的かは別にして)消えている。
[流れゆく葉っぱに視点を固定すると、橋が遠ざかって流れてゆく]
◎水の上に葉っぱを置いて、葉っぱ(あるいは葉っぱの上に乗るアリ)の視点からいえば、水は止まっている。葉っぱと水とは同じ速度で同じ方向へと動くから。流れゆく葉っぱに視点を固定すると、橋がここからそこへ遠ざかって流れてゆく。
[電柱・鉄柱は猛スピードで後ろに走ってゆく]
◎疾走する郊外電車の窓から景色を見れば、「電車が走る」よりも、「景色が後ろに退いてゆく」感覚にとらわれる。間近の電柱・鉄柱が猛スピードで後ろに走ってゆくとしか感じられない。風景の移動が速すぎてその方に視点を固定できないので(車上の)自分に視点を固定せざるを得ないからである。葉っぱの上のアリと電車の中の私。
[視点を動かすと行き詰りはない]
◎もう進む道がないという行き詰まりは特定の馴染みの視点(主に自我・言葉)で問題を見るからである。視点を動かす・言葉を取り払うと、霧が晴れるように行き詰りは消え去り、依然として流れ動く、常に動いて止まず。創造・笑いはこの視点の転換から生まれる。
[もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる]
パウロはいう、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」と。
[パウロがキリストの下位機能として生きる]
◎これは自我・私(パウロ・特殊)から自己(キリスト・普遍)への視点・重心・軸足の転換である。厳密には、キリストが私(パウロ)の内に生きるのではなく、私が、キリストの下位機能・部分・手足として、キリストの中(下)に生きる。上位システム(キリスト)の一要素(下位システム・パウロ)として生きる。とはいえ、キリストの霊が彼の心に入って来る点ではそう(「キリストが私の内に生きておられる」)ともいえるのだが。
[父よ、私の思いのままにではなく、御心のままに]
◎十字架上のキリストもいう、「父よ、私の思いのままにではなく、御心のままに」(マタイ福音書)と。
◎イエスから父(神)への視点の転換、「私の思い」から「御心」のままへの転換、キリストから更に大きなシステム(父)への転換(階層上昇)である、パウロからキリストへと転換したように。自分より上位階層に視点を(完全)移行させて、自分に固定した視点(自我)は削除する。この削除を忘れて自我が生き続けていることを忘れる教祖も数多い。しっかり削除されることを強く願う。
[有限・相対・二元対立の自我が無限・絶対・一元の自己に帰ることが悟り]
◎窪田慈雲禅師はいう。有限・相対・二元対立の「自我」が無限・絶対・一元の「自己」に帰る(階層を上昇する・さらに大きく統合する・普遍化する)ことが、悟りであると。階層上昇=統合拡大=普遍化=視点上昇が悟りである。
[自己は円の内部に自我を含む]
◎自己は円の内部に自我を含む。自己は自我よりも上位の階層に属す。自我は集合「自己」の一要素で、自己の下位システムである。集合「自己」の内部が満たされると円満になる。とはいえ、永遠にとってもいいくらい、本当の完全なる円満は訪れないが。
[自我は意識の中心で、自己は意識と無意識両者の中心]
ユングは「自我」と「自己」との関係を述べる。自我は意識の中心であり、自己は意識と無意識との両方を含む心全体の中心である。人間は意識と無意識とを合わせ持つのに、一方に傾く(不均衡になる)とき、自己は上位階層にあってそれを補償し、しかもより高次の統合へと引き上げるように働く。それを意識化(自我内に受容)することが自己実現(自我の拡大)である。
[私たちは自己よりも自我を優位に置く逆立ちで生活する]
◎本来自我よりも自己の方が優位・上位であるのに、私たちは自己よりも自我を優位に置く逆立ち生活する。しかし眠ると、自我(意識)の統制力が弱まり自己(無意識)が本来的に持つ主導権を取り戻す。
[瞑想は自己と自我の関係を正常化させる]
◎瞑想は、そのような自己(優位・上位・無意識)と自我(劣位・下位・意識)の正当な関係を、目覚めているときにも成立させる。現実世界の上に夢世界を積み上げる。なおヨーガの瞑想は、心を一点集中する→心の働きを鎮めて澄み渡らせる→自分の意識が霧散(無我・空)する、という段階で発展する。
[夢の中で、自分を夢に見ている他者を眺める]
ユングは夢を見た。瞑想するヨガ行者に「近づいてみると、彼が私の顔をしていることがわかった。わたしは非常に驚いて、目覚めながらこう考えた。ああ、そうか。彼が私を瞑想しているのだ。彼は一つの夢を見ており、それが私だ。彼が目を覚ますと私はもはや存在していないであろうことを私は知っていた」と。
[彼の夢は自己から自我を見る視点への転換をうながした]
◎私(自我・ユング)と彼(自己・ヨガ行者)との関係が、日常的「私が彼を見る」から、夢の中での「彼の中に私がいる」へと心理的転換、「私の(夢の)中に彼が居る」から、「彼の夢・瞑想の中に私が居る」へ逆転した。
◎これは、自我中心(天動説)から自己中心(地動説)への視点の転換・回心、「自我から自己を見る」態度から「自己から自我を見る」視点への、正統的・正常的・本来的への転換である。
[荘子の中の蝶か蝶の中の荘子か]
◎胡蝶(=蝶)の夢は語る。中国戦国時代の宋の思想家荘子は、自分が蝶となって百年を花上に遊んだと夢に見た。だがしかし、自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑った。荘子(自我)の中の蝶(自己)か蝶の中の荘子か。これは彼の心の中でも視点の転換が兆していることの現れであろう。