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第九章 能動・意志の意識と受動・本能・自動の無意識 [64]固有意識は打ち出の小槌で伸縮自在

[64]固有意識は打ち出の小槌で伸縮自在
[無意識は自動操業の作業場で意識はその監視センター]
◎無意識は、完全プログラム化され自動化された作業場である。意識は、そこから離れた位置にある、モニター機器と遠隔操作機器が備え付けてある監視センターである。流れ作業が何らかの原因で中断したら、自動監視機器は故障を警報によって知らせる。
[意識は自動的(無意識的)働きを手動に切り換えるための場所]
◎意識・欲求がその警報を聞いて立ち上がる。行動に抵抗や阻止が発生すれば明瞭な自我意識(何心)が現れる。意識は自動的(無意識的)働きを手動に切り換えるための場所であり、自動的機能が働く場所より一段上位の位置、氷山(無意識)の水面上に突き出た一角である。
[脳幹網様体賦活系は受け取ったエネルギーを配分する]
◎欲求は脳幹・大脳辺縁系が関与し、発電所で作り出したエネルギーを上位階層に送り出す。脳幹網様体賦活系は受け取ったエネルギーを配分する分電盤である。それは大脳新皮質の全般的賦活・抑制に関わり、意識の覚醒水準に重要な役割を果たす。
[情報は視床下部大脳辺縁系へ送られ、最終的に前頭連合野にて意識される]
◎具体例をあげる。例えば、空腹感や満腹感は、肝動脈・膵臓・十二指腸内にあるニューロン(自動監視機器)が血液内物質の変動をモニターし、胃の収縮伸張情報と共に内臓からの情報として延髄に送る。これらの情報はボトムアップ方式で視床下部を介して、大脳辺縁系へ送られ、各階層を経由して最終的に前頭連合野に送られて意識される。
[注意能力は広くも狭くも、高くも低くも変化する]
◎注意能力は活性度が下がればぼんやりするが、範囲は広がる。逆に覚醒度が高すぎると注意範囲は狭まり、極端な時には目の前が真っ白(停電)になる。範囲が狭いと選択自由度(余地)が低くなり、固定的・直線的な処理になる。逆に範囲が広いと同時並行的に情報処理できる。この仕組みを考えると、注意範囲は階層構造を上下すると見なせる。
[感覚と感情は身体から離れず、思考と直観は離れている]
◎感覚は身体と結合し、思考は身体から離れている。感覚は自分の周囲を取り巻く物体に対する情報を受け取る。感覚は今の時間と周囲の空間とだけ関わる。感情は身体的欲求の外へと同時に内への表現手段である。それ故、感覚と感情は身体から離れていない。
[自我(身体)は個人(特殊)優先で、意識(精神)は集団(普遍)優先である]
◎自我(身体)は個人(特殊)優先であるが、意識(精神)は集団(普遍)優先(志向)である。通常、意識=自我と見なされるが、意識が自我と密接に接続する、意識が自我という入れ物の中で働くとき、意識=自我の関係になる。意識は(水素やヘリウムを詰めた)風船のようなもので、拡大すればするほど、意識は向上してゆく。
[意識が身体から離脱するか]
◎意識は身体から独立できるか。電磁波は携帯電話などの電子機器から外に向けて発生する、食べ物からにおいが漂い出る、物質から音が出る。さらに臨死体験の報告などから推測すれば、意識が身体から離脱するのは不可能ではないかも知れない。
[意識は浅・深、狭・拡、高・低、変幻自在である]
◎物質的自我(身体)は恒常性を目指すが、意識は統一(拡大)を目指す。とはいえ、どんな時・事態でも常に統一・拡大を目指すわけではなく、時にはバラバラに乖離する、すぼまって狭窄する。このように心の状態に従って意識は浅・深、狭・拡、高・低、変幻自在である。
[意識と自己は階層を統合・拡大しながら昇ってゆく]
◎オーストラリアの神経生理学者エクルスはいう、「哺乳類の進化が新皮質を発達させ、それが意識を生み出した」と。
◎意識の座は大脳新皮質である。ユングの「自己」は、個人・自我・肉体を超えた意識体系、意識と無意識との両方を含む統一体(固有意識)、全体の中心(核)、意識と無意識の対立を止揚し統合した中間の第三のもの(弁証法的統合・象徴)である。
[自我の一面性に対して無意識は両者間に橋渡しをしようとする]
◎無意識内容の取り入れについてユングはいう、「自我の一面性に対して無意識は補償的な象徴を生ぜしめ、両者間に橋渡しをしようとする。しかし、これは常に自我の積極的な協同態勢をもってしなくては、起こり得ない」と。
[意識側の自我は無意識から情報・エネルギーを獲得せねばならない]
◎自我は意識側に属すので、橋を渡って向こう側の豊富にものが揃う無意識に情報・エネルギー・ものを買い出しに行かねばならない。とはいえ、自我は合理(別名一面性)という名のスーパーで買い物を済ませようとする。そこにはなじみの品物が揃っているが、それらばかり食べると栄養の片寄りが生じる。
[意識は井戸であり、無意識は地下水]
◎心は意識よりも広く、知・情・意の精神肉体活動全体をおおう。意識は、思考・感覚・感情・意志(自我の営み)を含む精神的活動に関わる。意識は井戸であり、無意識は常に流れて留まることを知らない地下水である。人は井戸から地下水のごく一部だけを汲み上げる。
[選び取る意識と自動的に受け入れる無意識]
◎意識(意欲=大脳新皮質)は何かに向かい、何かを選び取る志向性を持つ。無意識(本能=欲求=脳幹)は、より分けず自動的にあるがままに受け入れる。その中間・橋渡し・媒介をするのが脳幹網様体賦活系である。
[脳内処理されるが意識に昇らない膨大な感覚入力情報量(=無意識)]
◎感覚から入力する情報量は無限といってもいいほどであるのに、実際には今ここの課題を処理するのに必要な情報だけが使われる。脳内で行われる情報を処理する神経活動は膨大であるのに、意識にまで上昇するのは極わずかである。
[意識機能を全面停止させると、無意識の観・覚が露わ(表面化)となる]
◎無意識はあるがままの受容・肯定・一致である。意識は疑問(感嘆)・否定・不一致・選択である。意識機能を停止させると、「観」・「覚」だけが残る、眠るとその機能も停止するが。ベルクソンはいう、意識機能を全面停止させると、無意識の観・覚が露わ(表面化)となると。
[覚はあるがままの深みを知る心的立体観]
◎心理学者黒田亮は「覚」を、「部分すべてを包蔵しつつも部分に拘泥せずに、ものを破壊することなくそのあるがままの深みを知る心的立体観」だという。
◎この表現からすると、覚は右脳的直観的把握と考えられる。また沢庵禅師のいう何心なくの全体把握と同じであろう。
[悟りは物全体の不可分の知識]
鈴木大拙はいう、「知識は知りえた事物の部分的観念を、しかも外面的な見地から、与えるのみである。悟りは物全体の知識であり、部分の集合物ではなく、不可分のもの、それ自体で完全なのである」と。
◎観(=直観)=覚=悟り(の智慧)=何心なしの全体把握=右脳的直観的把握である。
[意識は脳という空間的限界を超えて遙かかなたまで広がり得る]
1)マトゥックはいう、「意識は非局所的である。脳という空間的限界を超えて遙かかなたまで広がり得るものであると考えられる」と。
[意識は皮膚で被われた身体自我が持つ時間・空間面の境界を越えて拡大する]
2)グロフはいう、意識は皮膚で被われた身体自我が持つ通常の時間・空間面の境界を越えて拡大する。それは全動植物・宇宙・地球・祖先との一体化や、過去世への退行、系統発生的・進化上の経験・記憶とのつながり・接続をも体験する。
[前意識から自己意識を経て超意識へ意識は成長し、進化する]
3)著書「トランスパーソナル心理学・精神医学」に、「意識のスペクトルは成長し、進化する。それは、最も一般的な意味で、前意識から自己意識を経て超意識へ、あるいは前個的から個的を経て超個的な諸能力へと動く」とある。
[トランスパーソナル心理学は個人的時間・空間の境界を越える]
◎スペクトルは、一つの基準に従って分解・区分けして並べる。意識のスペクトルは意識の弁証法(混沌→分化→統合)的階層構造(前意識・前個的→自己意識・個的→超意識・超個的)と解釈できそうである。トランスパーソナル心理学は、人間性心理学をさらに奥へと押し進め、死後の世界・子宮回帰・前世への退行などのイメージ体験を重視する。
[自我の守備範囲は広がる]
4)身近な事柄を例に取る。自分の通う学校の野球チームが優勝すればとてもうれしくなり、自分の応援するサッカーチームが負ければ悔しくなるのを(精神分析では)自我関与という。このように自我の守備範囲は広がる。オリンピックでは、日本人なら日本チームを応援したくなる。これは自然な感情だろう。
[心は大千沙界の外に出づ]
5)鎌倉初期の日本臨済宗開祖栄西禅師(1141-1215)は「興禅護国論」の序文でいう、「大いなる哉、心や。天の高き極むべからず。しかも心は天の上に出づ。地の厚き測るべからず。しかも心は地の下に出づ。日月の光は踰ゆべからず。しかも心は日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず。しかも心は大千沙界の外に出づ」と。
[超個はその意志を個人の意識・手足・躯幹を通して実現させている]
6)鈴木大拙は「禅の思想」でいう、「超個はその意志をこの特定の個の意志として、彼が意識、彼が手足・躯幹を通して実現させている」と。
◎「通して」という部分に関しては、「超個が個多へわりこんでくるといってもよし、個多が自分を無にして、その舞台を明け渡したといってもよい」と説明する。
◎なお超個は個人を超える存在(神仏)で、個多は一人一人の個人である。
[心を何処にも置かねば、我が身一ぱいに行きわたりて、全体に延びひろがる]
7)茶づけのともたくあんの発明者ともいわれる、沢庵禅師はいう、心を「何処にも置かねば、我が身一ぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてある程に、手のいる時は手の用を叶へ」ると。
◎心をどこかに置くことが意識・注意であり、そこに置いた途端、ほかの動きが止まる。
[力を置いた所が意識の置き所]
8)ドイツの哲学者で東北(帝国)大学講師として来日したオイゲン・ヘリゲル(1884-1955)は「弓と禅」で、弓の指導者阿波師範の言葉を紹介する、「弓の弦を引っ張るのに全身の力を働かせてはなりません。そうではなくて両手だけにその仕事をまかせ、他方腕と肩の筋肉はどこまでも力を抜いて、まるで関わりのないようにじっと見ている」と。
◎力を置いた所が意識の置き所。緊張すればするほど、ますます余計な無駄な力が入る。この力を抜くという技を習得するのに一苦労、二苦労を要する。
[力を抜けば抜くほどますます容易にあなたの四肢に精神力の源泉が注がれる]
◎さらに阿波師範はいう、「この呼吸法によって、あなたは単にあらゆる精神力の根源を見出すばかりでなく、さらにこの源泉が次第に豊富に流れ出して、あなたが力を抜けば抜くほどますます容易にあなたの四肢に注がれるようになる」と。
[あなた自身から離脱して一切を捨て去る]
◎「どのようにしてそれが修得されるのでしょうか」というヘリゲルの質問に対して、「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何もあなたに残らないほど、あなた自身から離脱して、決定的にあなた自身とあなたの一切を捨て去ることによってです」と師範は答える。
[自分を無にして舞台を明け渡す]
◎師範は重ねていう、「まるで剣がひとりでに動いて行くようであって、弓射の場合に"それ"が狙い、あてるといわねばならないように、ここでもまた自我の代わりに"それ"が入って来て、自我が意識的な努力で自己のものとした能力や技量を駆使する」と。
[自力的行為から他力へと仕事を任せ切る]
鈴木大拙と沢庵禅師と阿波師範は同じことを語っている。私たちの行動はほとんどすべて自力的行為であるが、彼らは自力(意志・意識)から他力(空却心・無意識・無我・無心)への転換を言い表す。意志・意識を消して自律した下位機能(上位機能"それ")に全面的に働きを任せ切る。
[親指小僧・親指姫・一寸法師]
9)ドイツのグリム兄弟が200編以上に及ぶ民話を収集編成した、世界中で読まれている童話集、「グリム童話」には「親指小僧(=親指トム)」が登場する。他方デンマークアンデルセン(1805-1875)の童話はチューリップの花から生まれた小さな「親指姫」の物語をのせる。日本には「一寸法師」の昔話がある。
[鬼さえ退治すれば打ち出の小槌が手に入る]
一寸法師のように意識は大きくなったり小さくなったりする。彼は鬼(自我)退治によって奪った「打ち出の小槌」の力で大きくなる。彼のように体(意識)を大きくしたり小さくしたりする「打ち出の小槌」は宝の倉にある。そこで門番をする鬼さえ退治すれば私たちも「打ち出の小槌」が使える。