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第十一章 情報・物質・エネルギーの維持・相互作用・循環 [83]心(意識)と体(無意識)の分離と統合(三昧)

[83]心(意識)と体(無意識)の分離と統合(三昧)
[型は形を与え、中心を与え、エネルギーを一方向に集中させる]
◎キリストは型(律法)重視のユダヤ教を非難したが、型は拡散するエネルギーの方向を定め、形を与え、中心(核・目標・言葉・集中)を与える、エネルギーを一方向に集中させるレーザ光のように、細胞膜のように。
[型通りの行動は惰性化しやすい]
◎しかしながら、型通りの行動はエネルギーの投入が少なくても可能にする、心を込めなくても実行可能になる、助手席の友人とおしゃべりしながらも運転できる。それに対して、キリストは心を込める、愛情を注ぐことを求めた。
[熟練者は脳内に自律化している運転機能を持つ]
◎おしゃべり(意識・上位機能)と運転(無意識・下位機能・習熟機能)とは別々だから、同時にこなすことは可能である、若葉マークの初心者ではそうはいかないが。熟練者は脳内の運転機能が自動化・自律化している、通い慣れた道、危険性の少ない道路状況であれば。
[無意識は定型的・習慣的行動を導く]
◎所が、無意識は型にはまった、習慣化した行動には有効だが、融通性がない、とっさの機転が効かない、新しい状況には手も足も出ない。カメであれば、カタツムリであれば、タヌキであればそれでよいかもしれないが。
[体得した型は意識を伴わなくても無意識の内に遂行できる]
◎伝統は型で、それを真似ながらの反復による修業によって無意識の内に遂行できる、もちろん意識喪失では無理だが、無意識優位・意識劣位の状況下で。内蔵などは文字通り意識がなくとも無意識に活動する。しかし私の内蔵はよくストライキを起こすけれども。
[心を伴わない動作はサル真似]
◎意識と無意識とが分離して、心(意識)が同伴しない動作は、形式的で単なる模倣、サル真似になる。時にばかていねいにお辞儀をする店に入ると、無性に居心地の悪さを覚える。こちらに合わせた挨拶(向こうの気持ちを一方的に押しつけて来るとの感じがなくて)が一番ありがたいのだけれども。
[練習による体得は、運動の主導権を無意識的で自然な運動へ切り替える]
◎意識的な大脳新皮質が支配する(随意運動用)錐体路の介入が強いほど、運動はスムーズでなく力みが見られる。練習による動作の体得は、運動の主導権を錐体路系の意識的な運動から(不随意運動用)錐体外路系の無意識的で自然な運動へ切り替える。
[初心者の運動では、体性感覚野に入った情報は、前頭連合野が介在する]
◎初心者が運動を行うと、体性感覚野に入った情報は、前頭連合野に送られて動作のうまいへたを判定され、良よければ運動野へ伝えられる。その情報は錘体路系である脳幹から脊髄を通って筋肉に達する。その時の動作中の感覚は筋感覚器から脊髄と脳幹を経て体性感覚野へもどるフィードバック情報として循環を形成する。
[熟練者では小脳へ入って情報処理された後、直ちに脳幹へ戻る]
◎所が、熟練者になれば、筋肉から上がるフィードバック情報は初心者と違って大脳新皮質(前頭連合野)にまでいかず、小脳へ入ってそこで情報処理された後、直ちに脳幹へ戻る。このような無意識経路(錐体外路系)による反応は素早い。
[スピードを要求する競技は無意識主体で進めなければならない]
◎足が押しピンを踏んで刺さると、その刺激情報が脳に到達するまでは1/50秒で、しかも前頭連合野で自覚・意識するには1/2秒かかる。テニスはそのような意識による判断を待って競技するスピードではなく、無意識主体で競技を進めなければならない。
[意識と無意識(下位機能)とは分離・乖離・疎外する]
◎意識(上位機能)と無意識(下位機能)とは分離・乖離・疎外する。これが新しい事柄の習得を可能にする。しかしながら、そのことが、深々と頭を下げても、「何でこんな奴に頭を下げねばならぬのか」と反発心を持ちながらの行為を可能にする。それでは全くの形式だけで抜け殻、知性(頭)と感情(心)とが分離している。
[意欲(志)に方向を与えるのが型]
◎芳賀幸四郎は「禅文化」でいう、「内面的・無限定的な心情が事に触れてきざし躍動したものが志であり、その志が言語・文学その他の素材をかりて自らを客体的に表現し限定したもの」が芸術だと。
◎エンジン自体は運動を産み出すが、それに方向性を与えるのがハンドルである、下から来る心情に素材を提供するのが頭である。所が、頭だけが事に当たるが、心(志)はそっぽを向いているという逆立ちも人間だけは可能となる。
[たぎる芸術意欲(志)がなければ形骸行動]
◎内面にふつふつと「たぎる芸術意欲」に方向を与えるのが形式・型である。無限定的心情(粗野な無方向的力)→芸術意欲→型(表現美)へと限定(洗練)されてゆく。しかしどれほどかすばらしい形式を身につけていても、たぎる芸術意欲(志)がなければ肉のない形骸化、骸骨ダンス、あるいは(骨抜きの)肉ダンスである。
[夢中とは行動階層(下位階層)と現実階層(上位階層)とが一体化]
◎夢の最中では、「これは夢だ」と気がつかない。夢を見ながらまれにそう思うこともあるが。私はいやな夢を見ている場合は耐えきれない時には夢の外へと逃げ出す(目を覚ます)けれども。その時はかなり浅い層(意識の近い層)の夢見だろう。
◎「ああ、今のは夢だったんだ」と気がつくのは、現実という大きな堅固な枠の中の一部分だと了解してからである。テレビを見ている時、テレビ内での出来事は今この場所でのものではないと判断がつく。この堅固な枠を持たない人はどれほど心細いことだろうか。
[明確に区切られた枠内に没入するのは難しい]
◎これは夢見の階層(下位階層)と現実の階層(上位階層)とが違うからである。絵は額縁に入れられ内と外とが明確に区切られるためにその中に没入するのはかなり難しい、ドラエモンの「どこでもドア」であれば別だが。この区別の曖昧な人は夢と現実の区別がつきにくくなる。
[無我夢中は心(意識と無意識)の全面を占める]
◎逆に、映画館はスクリーン上の出来事に没入できるように、周りを暗くしてスクリーンしか目に入らない、意識されないように工夫を施す。さらに大きな音で感覚を全面的におおう。それによって仮想世界に没入しやすくなる。映画館の中に入った当座は違和感があっても、程なくその映画の中に浸り込める。夢中になる、映画中になる。無我夢中とはこのように心(意識と無意識)の全面を占める。
[意識が分断されると集中できない]
◎そのような時に、隣でぽりぽりポップコーンを食べられたり、恋人同士がひそひそとおしゃべりされたらイラつくが、それは映画に集中できないからである、断じて羨ましいからではない。映画へ向かう意識と周辺へと向かう意識とに分断される。とはいえ、志向する方に全意識を集中できないのはこちらの弱さであるが。
[側頭葉に刺激を与えると過去を再体験する]
◎大脳生理学者ペンフィールド(1891-1976)は、脳のてんかんへの外科的治療として切除手術をたくさん実施した。脳は神経の固まりであるが、肝心の感覚受容野がないので痛みを感じない、いたって無神経である。
◎そういうわけで麻酔をかけずに、彼が脳手術中に患者の側頭葉に電気刺激を与えると、患者は過去の記憶をありありと再体験・追体験する。
[その時々の最上位の意識を自分だと思う]
◎再体験する自分(下位意識)を意識するもう一人の自分(上位意識)がいて、意識する自分を本物だと感じる。つまり、人はその時々の最上位の意識を自分だと思う。意識は温めたミルクの上皮である。もしその時患者たちに上位意識が消えていれば、過去の状況のまっただ中にいると実感したにちがいない。夢の中での自分を夢中時には本物の自分だと疑わないように。
[知性(頭)と感情(心)、意識と無意識とが分離せずに統合された三昧]
◎芸術・スポーツを問わずあらゆる行動は三昧の中で行われることが望ましい、知性(頭)と感情(心)、意識と無意識とが分離せずに統合されて、他の対象に気が移ったり乱れたりしない。それに対して、分離は白ける、距離を感じる、バラバラ感をいだかせる。これは自分の内部においても仲間との間においてもいえる。
[三昧は意識・無意識が継続して一つになり集中し気が散らない]
◎芳賀幸四郎のいう三昧(定・等持)[正念相続(一心不乱)+物我不二(無分別)+正受にして不受(刺激に対して注意を向けないでそのまま受け流す)]は、ある対象に対してある時間継続して心(意識・無意識)が一つになり集中して気が散らない。例えば、無心に一心不乱に音楽に聴き入る時は純粋経験で、(もう一人の)自分が消える。
[下位機能が主人公となり、脳全体を独占する]
◎とはいえ、これは悟ったとはいえない。人は自分(自我)の中に何人もの下位人格を抱える。その下位人格の一つ(一人)だけが機能して、残りの人格が機能停止になり、脳全体を独り占めにする。その後下位人格が退場するとすぐ自我が再登場する。
[三昧は自我(意識)は立ち会わない、あるのは行為のみ]
安土桃山時代の茶人千利休(1522-1591)は参禅した経験があり禅の影響を強く受けた。その彼はいう、「茶の湯とは只湯をわかし茶をたてて飲むばかりなるものとしるべし」と。◎湯をわかし茶をたてて飲む三昧「行為」だけが存在し、そこに自我(意識)は立ち会わない、あるのは行為(機能・働き)ばかりなり。
[思い(意識)と行為(無意識)との関係]
新約聖書はいう、「みだらな思いで他人の妻を見るものは誰でも、すでに心の中でその女を犯したのである」と。
◎思い(内的動機)と行為(外的行動)の関係は、「思いのない(形骸化した)行為」、「思いのこもった行為」、「行為に至らない思い」の三通りがある。
[形骸化した行為に重点を置くのではなく、それらを行う心持ちに置く]
◎キリストはユダヤ教徒たちの形骸化した(思いのない)行為(律法重視)を厳しく非難した。行為自体よりもそれを推進する気持ちの方に重心を置き換えた。形骸化した律法・行為に重点を置くのではなく、それらを行う心持ちに重心を移し替えた。それを端的に表す表現である。
◎しかし時がたてば、キリストの言葉も文字通りに受け取られて、形骸化が始まったが。心せねば、誰もが同じ轍を踏む。
[型が出来上がると形骸化へと進む]
◎型が出来上がると形骸化へと進む。仏教においても状況はまったく同じであり、鎌倉期の禅僧で日本曹洞宗の開祖道元(1200-1253)も旧仏教の腐敗ぶりに業を煮やした。改革(革を改める)には新しい革袋が必要となる。

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