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第十四章 トップダウン哲学とボトムアップ科学 [102]思いを続ける合理性の哲学と思いを断ち切る非合理性の宗教

[102]思いを続ける合理性の哲学と思いを断ち切る非合理性の宗教
[裸の王様は見えない衣服を自慢する]
◎「裸の王様」はアンデルセンの童話である。愚か者には見えない衣服だといわれたけれども、その衣服を着た王様自身にも街の人々にもそれは見えない。しかし「見えない」といえば、自分は愚か者だと自白することなので、だれも実際には見えない衣服をほめたたえる。所が、一人の子どもが「王様は裸だ」と見たまま、ありのままを叫ぶ。
[裸の王様は私たちだ]
◎「王様は裸だ」と叫んだ素直な子どもは誰だと思いますか。それは釈迦でありキリストである。また、裸の王様は一体誰だと思いますか。近くでよくよくよく見れば、な、なんと自分の顔だったのです。
[自我が作り出した幻想世界の住人たちは真実を見る目を覚ました]
◎自我が作り出した幻想の、幻の世界で、あだ花から実った実を食べる住人たちは、子どもが叫んだ瞬間に、ありのままの真実を見る目(悟り)を覚ました。それはまさに、大きなシャボン玉(自我)の中で暮らす人々に玉がはじけた瞬間である。
[哲学は懐疑・否定をこれ以上には掘り進めない所まで徹底して真理を求める]
◎哲学は真理を求めて行う反省的吟味である。懐疑・否定をこれ以上には掘り進めない所まで徹底した時点で手を離す(思考を止める)。そこでさまざまな経験を統合(源泉)する根本原理(根拠)を発見して、それに従って知識(個々の真理)を体系的に積み上げてゆく。
[哲学者よりも掘り進んだ花咲じいさん]
◎所で、花咲か爺さんは哲学者が手を止めた所(合理性の限界)よりもさらに掘り進んで小判をざくざくと掘り当てた。哲学者の皆さん残念でしたね。宗教は哲学者がつかんだものを単なる石ころ(原石ではなく)だという。
[懐疑・否定は自我が身につけた衣服をすべて脱ぎ捨てて丸裸になる営み]
◎懐疑・否定は、自我が今までに身につけた(と思い込んだ)衣服・飾りをすべて脱ぎ捨てて丸裸になる営みである、サルを激怒させるらっきょうの皮むきのように。仏教的にいえば、自分は裸の王様のように本来丸裸・無一物で、本来は丸裸なのにそこに自我服をわんさか着込むのが俗人です。懐疑・否定はそのようなすべての執着(この世で身につけたもの)から解脱する作業である。
[根本は(私が)思う営みをしている事実にある]
◎フランスの哲学者・数学者・自然学者デカルト(1596-1650)は、この懐疑・否定作業を徹底した後に、「我思う、ゆえに我あり」(根本原理)と宣言した。あらゆる皇帝(肯定)の衣服を脱ぎ捨て(懐疑し否定し)ても、脱ぎ捨てる営みをする(精神的)「私」(我)は、あるいは脱ぎ捨てる(精神的)「営み」(思う)だけは存在すると。
[デカルトは懐疑する主語的自分は存在すると結論する]
デカルトの懐疑は「主語的自分」が「目的語的自分・対象」を捨てて捨て切っても、依然として懐疑する(「思う」)主語的自分はあくまでも存在する(「我あり」)と結論(哲学の第一原理と)する。
[仏教は主語的自分すらも捨てなければならないという]
◎仏教は、そのような目的語的自分を捨てるだけでは「目あり」で、主語的自分すらも捨てなければならないという。そのことを鎌倉中期の僧で時宗開祖一遍(1239-1289)はみごとにうたう。
[身を捨てて心も捨てて後に到達する悟りへの道]
◎「身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみ染めの袖」。
◎最初は身(目的語的自分・肉体・肉体が発する欲望)をすつるが、次にすつる心(主語的自分・自我・分別心・意志)をもすてつれば、もはやデカルトがした「思う」行為すらもなくなる(思ひなき・無我・無心)と。
[我とか仏とかの分別はなく、自然現象だけがこだまする]
◎一遍は踊り念仏者としても有名で、夏の盆踊りはそこから来たともいわれる。しかし立って踊るだけでなく、禅師について座って修行もした。そして悟りの一句をその禅師に献上した。
◎「唱うれば仏も我も無かりけり、南無阿弥陀仏の声のみぞして」。
◎差し出した悟りの句について禅師からは聞かれる声がある「耳あり」(発する声とそれを聞く耳との自他の分割)だと再考を促される。そこで一遍ではなく更に次の一句をも提示した。
◎「唱うれば仏も我も無かりけり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」。
◎我とか仏とかの区別(分別)は存在しなく、ただただ念仏の響き(自然現象)だけがこだまする。
[石田梅岩は性とは何かの悩みに思い詰めた日々を送る]
◎江戸中期の思想家、石門心学の開祖石田梅岩(1685-1744)は悟り体験を持つ。「性とは何か」の悩み以外のことは全く心に入らず、一心に思い詰めた(大疑の)日々を送る。答えを知りたいと切望し師を求めて了雲居士に巡り会った。彼を師として一年半ほど仕える。
[すべてをつかさどる根本原理をつかむ悟り体験を持つ]
◎梅岩の母親が病いに伏したので、古里に帰り看病をしていて、戸を出た瞬間に、長年の疑問は霧が晴れるように「性は天地万物の親」(仏性[宇宙原理]は天地万物の生みの親)だと悟る(直観する)。性の本質・核心・(すべてをつかさどる)根本原理をつかんだ、知の最上階層に到達した。
[固定的視点からさらに離脱する必要がある]
◎梅岩は悟ったと得々として老師に伝えると、「我が性は万物の親と見たる所の目が残りあり。性は目なし」と突き返される。自我からの視点がまだ残る「目あり」だと叱責される。「親」という強い分別的言葉(親子・兄弟・父母)は固定的視点を示す。そこからさらに離脱する必要がある。
[梅岩は心身脱落の悟りを得る]
◎その後さらに寝食を忘れて坐禅に努めて、ある暁に雀が鳴くのを聞いて悟りを開いた。「性は天地万物の親」だとの悟りと雀が鳴くのを聞いての悟りとは違うものだろう。前者は知的な悟り(直観能力・智慧の開花)で後者は身体的な悟り(身心脱落)だと思える。
[合理の哲学と非合理の宗教]
デカルトが参禅したならば、梅岩と同じように、「目あり」だと叱責されよう。ここが合理性の西洋と非合理性の東洋の分かれ目(目ありと目なし)、合理の哲学と非合理の宗教の境目。哲学はあくまで現実世界から離れない。現実世界を秩序づけようともくろむ。それに対して、宗教は現実世界から離れよ離脱せよと呼びかける。哲学を上に突き抜けたところから宗教は始まる。
[思う行為をする「自我=目(芽)」までつみ取れと禅ではいう]
デカルトの「思う」=知性と解すると、我(ワレ)=自我となる。思う(現象的)行為は実際上存在するとしても、その「思う」行為をする(空間的・場所的)自我までも存在するとするのは「目あり」(現実世界の肯定)といえる。その目(芽)までつみ取れと禅ではいう。実際には「思う行為」まで消滅させよというが。
[肉体の欲望が消え、意識の思考機能を停止すれば、身心脱落する]
◎「思う」行為は肉体側がするのではなく、意識側が行う。肉体ではなく、意識(精神)が思考機能を持つ。その思う行為は肉体に反響するのだが。肉体(ボトムアップ)の欲望(炎)が消え、さらに意識(トップダウン)の思考機能(さざ波)を停止すれば、身心脱落(無色透明・明鏡止水)する。「自我」も「思う」行為もともに滅することによって仏(我無しの無我)になる。
[聞く耳見る目を脱落した時が悟り]
◎仏も我も無かりけり、ただあるのは南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の響きだけ、雀の鳴き声だけ。それを聞く見る自分(聞く耳見る目・すべてを集める中心核)は雲散霧消する。意識が身体から完全に離脱し、完全純粋意識になった(身心脱落)時点(純粋直観)が悟りである。