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第十五章 絶対無を目指す宗教 [114]自力・自律・上昇・能動・人為・覚と他力・依存・下降・受動・自然・無為・信

[114]自力・自律・上昇・能動・人為・覚と他力・依存・下降・受動・自然・無為・信
[能動=人為=努力=覚の自力救済と受動=自然=無為・自然法爾=信の他力救済]
◎自力救済の特徴は、ボトムアップ方式で、修行(自己の精進努力による救済・解脱)=自立=(頂上を目指しての)自力=自律=神へ向かっての上昇=能動=人為=努力=覚である。
◎他力救済の方は、(上からの救いの手を信じて待つ)トップダウン方式で、祈り=他力=依存=神からの下降=受動=自然=無為・自然法爾=信といえる。
[信心がなければ神は応答できない]
◎「そったく同時」は、卵が孵化する時、殻の内でひなが鳴く声と母鶏が外から殻をつつくことが同時に行われる。ひなが鳴く声が自力門であり、母鶏が外から殻をつつくことが他力門である。ひなが鳴かなければ母鶏が殻をつつかない。菩提心・信心がなければ母鶏(神)は応答できない。信(真)なき里に神は舞い降りず。
[回心は自力と他力が合体した時点であり他力へ大きく重心がかかる出発点]
◎断崖の上から呼ばわりながら手を差し伸べる神。その神の声にはっと気がついて手を差し上げる、落ちゆく身を支えるのに精一杯で崖に張り付いて身動きならない人間。上から差し伸べる手をはっしと握りしめた時が回心、自力と他力が合体した時点であり他力へ大きく重心がかかる出発点(臨界点)である。
[欲が頭をもたげると悪魔が微笑む]
◎大正時代の作家芥川龍之介(1892-1927)の「蜘蛛の糸」のように、他力は天から垂れ下がる。その時自我が顔を出すと途端にプツンと切れる。これは私たち小人の得意技である。偶然の運が自分に巡って来ると、途端に欲を出す。ビギナーズラック(初心者の幸運)は悪魔の降ろすエサである。そこへ向けて欲が頭をもたげると上から悪魔が微笑む、我が意を得たりと。
[身を任せ切って心理的に死ぬ(自我を手放す)]
◎私は学生の頃夏休みに学校行事で大峰山(山上ヶ岳)へ登山し崖下(覗岩)をのぞく体験をした。のぞくときロープと二人の介添人の手とが私をしっかと支えてくれる。所が、私はその両者に身を任せ切って心理的に死ぬ(自我を手放す)ことができなかった。
[崖下ものぞけず自分の不甲斐なさものぞけなかった]
◎「怖い怖い」とお経のように繰り返しながら岩にしがみついた手をどうしても離さなかった。手を焼いた介添人たちはあきれ果てて、岩から手を離さぬ私を見放した。崖下をのぞけなかった私だったが自分の不甲斐なさだけはしっかりとのぞいてしまった。
[死ぬとは何かに全幅の信頼を置く、他人に任せ切ってしまう]
◎何かに身を任せ切る(帰依する)ことができず、全身で飛び込んで死ぬ(大地となる)ことができぬ、自我にしがみつく哀れな自分の姿。その自分はいまだに健在である。死ぬとは何かに全幅(無我)の信頼を置く、他人に任せ切ってしまう、母親の胸に抱かれてすやすや眠る赤ん坊のように。
[覚(自力)も信(他力)も目的は自我の外壁を切り崩す]
◎覚(自力)は、自我の外壁を自らが壊してゆき、信(他力)は、外壁が浸食されるにまかせる。両者とも壁を切り崩す作業が内部から行うか外部から行うかの違いであって、目的は同じ。
[特殊から脱皮して普遍に帰った後、自由自在に無数の特殊へと変化する]
久松真一は「禅と美術」でいう、「人間が人間の根源である能動的無的主体に帰入することによって、差別的な、形ある一切のものから脱却して、一切のものにかかわらぬ、無相な、絶対的に一なる主体となり、その主体が真の主体として、逆に、一切の差別的な形を現じてゆく」と。
◎トカゲが尻尾を再生するとき特殊細胞が普遍細胞に返り咲き、そこで増殖した後、また特殊細胞へと戻るように、人間が一切の形(特殊)から脱皮して無相(普遍)にいったん帰った(階層上昇した)後、自由自在に融通無碍に無数の特殊へと変化(ヘンゲ)する。
[習慣化した無意識的なはからいは意志的に取り除かなければ落ちない垢]
親鸞は、「自力の御はからひにては、真実の報土へ生ずべからざるなり」という。
◎とはいえ、自然な振る舞い(無為自然)と本人が思ってなした行為をあとで反省してみればそこには「はからい」(計算ずく)が見出される。
◎自然な振る舞いと思っても、すでにはからいである。意識してのはからいでなくても身についた習慣化した無意識的なはからい(コンプレックス)があり、それは意志的・意識的に取り除かなければ落ちない垢、浄化すべき垢である。自我(核)を持つ限り落としても落としても日々新たに生まれる垢ではあるが。今の坊さんではそのような垢は取れない、取れるのはアルカリイオン水であろう。