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第十五章 絶対無を目指す宗教 [116]事実(ぼかし)を映さない言葉(分別)を嫌う不立文字と教外別伝

[116]事実(ぼかし)を映さない言葉(分別)を嫌う不立文字と教外別伝
[言葉や文字にとらわれない不立文字]
◎「不立文字」は禅宗の基本的立場を示す。悟りは言葉(左脳)によって表現し切れない。悟りは体験すべきものだから、言葉や文字にとらわれない。禅宗は経典を持たない。極端には、「殺仏殺祖」という。釈尊の説法にも、経典にも権威を認めない。言葉主体になれば思想・哲学になり、実践主体となるのが宗教である。
[禅宗は体験一本槍]
◎私が禅宗に興味を覚えるのはその点である。説法・経典をも打ち捨てる、現実にはそれらを大切にしているようだけど。禅宗は体験一本槍、切り詰めれば「悟り」(「直指人心見性成仏」)のみである。それを師から弟子へ次々に以心伝心的に伝授してゆく。
[禅宗は他宗教とも併用可能]
◎ここまで思想を切り詰めると、世界が受け入れやすい宗教(宗教ともいえない技法に近い)といえよう。キリスト教を信仰しながら禅宗をも受け入れ可能である。キリスト教世界が心理療法を受け入れているように。
[言葉は意味を伝えるが、体感・実感自身を伝え得ない]
◎相手に「春は曙が素晴らしい」と伝えたいとき、言葉はやすやすと成しとげるが、それ以外の手段ではたいへん難しい。ジェスチャーゲームがこれを面白おかしく教えてくれる。言葉はやすやすと意味を伝えるけれども、実体験した素晴らしさ自体は全く何も伝えない。
[プリンの味は食べてみないとわからない]
◎プリンの味は言葉に置き換えられない。いくら言葉で説明しても食べたことのない相手は実感できない。相手にプリンを差し出して、「はいどうぞ」という以外にない。俳句は逆にそれをなんとか伝えようと悪戦苦闘・苦心惨憺する。言葉の世界に留まる。
[言葉に頼りすぎると体(感覚・感情)を置き去りにする]
◎言葉(知識・知性・左脳・上位階層)に頼りすぎると体(感覚・感情・右脳・下位階層)を置き去りにする。下手をすると、リンゴをすり下ろして、こし取った残りかすを差し出して、こした果汁を流しに捨てるに等しい事態になる。腹の空いた子どもに画餅を与える結果と成り果てる。
[桶に張った水に映る月が言葉]
◎出来事や物事は言葉で言い尽くせない。世界は言葉で作られてはいない。お菓子で作られた家はあるけれども。言葉が伝えないものは直接体験する以外に知りようがない。言葉は意味する対象から時間的空間的に離れても、存在しなくても提示できる。時間からも空間からも独立する。言葉は抽象思考をする左脳に所属する。桶に張った水に映る月が言葉である。とはいえ、海に映える夕陽、湖に映る満月は実にすばらしいが。ぜひとも実体験を。
[月・太陽そのものを見なければならない]
◎桶の水は月の影を映すが、月・太陽自体は別の場所にある。また事実無根も言葉は生み出す。「反省しています」「記憶にございません」「秘書が勝手にやりました」と。日本では議会、国会は単なる子どもの遊び場である、無意味語のキャッチボールをする。
◎政治家の皆さん、実のある対話を心がけないと、政治不信を募らせますよ、もう手遅れ医者かも。政治家・教師・宗教家などは国民の手本であり、国を良くにも悪くにも導く先導者である。トップ次第で国が組織がシステムが部下が栄枯盛衰する。
[言葉は切れ目を持つが、現実は連続する]
◎言葉は切れ目(切取線)を持つが、現実はどこまでもつながっている。例えば、「大人」と「子ども」とは反対語であるが、どこから大人で、どこまでが子どもなのだろうか。法律的には二十歳であるが、これは恣意的に決めたものである。さらにまた、白と黒とが反対色としてあるが、間には灰色(中間色)が存在する。白から黒へとすぱっとした切れ目があるわけではない。
[式によって一気の転換をはかる]
◎子どもから大人へは徐々に推移してゆくが、どこかで区切り(分別)をつけるために、現実世界では七五三とか、成人式とかの式を行う。独り身から二人身になるとき、盛大に結婚式をとり行う。二人身から独り身に戻る時には離婚式をしないようだが。
[経験を積みながら徐々に切り替わってゆく]
◎式(色)によって、白から黒(目出たいときには紅白)へと一気に転換を図る。しかしながら、現実では一気に態度が切り替わるわけではなく、経験を積みながら時間を経て徐々に切り替わってゆく。積み重ねて徐々に切り替わるが、現代社会ではそれを待つ忍耐力を育てない。実質より名目の方が重んじられる。
[言葉は切れ目を鮮明に入れて、オセロのように黒から白へと反転させる]
◎美術の世界に、特に日本・中国の水墨画の世界に、濃淡の段階的な徐々なる推移、「ぼかし」「グラデーション」「陰影」がある。境目・切れ目で一転黒から白へと転換するのではなく、段階を踏みながら徐々に変化してゆく。
[黒は白く白は黒い]
◎科学世界、理論世界に存在し得ても、現実世界には、完全なる黒、完全なる白は存在しない。それなのに言葉は切れ目を鮮明に入れて、オセロのように黒から白へと反転させる。人は往々にして勘違いする、きれいに切り込みを入れた理論世界とすべてがつながった現実世界とは次元を異にすることを、言葉通りの現実が存在しないことを。
[西洋は白黒をはっきり分けたがり、日本はぼかしたがる]
◎西洋は白黒をはっきり分けたがり、日本はぼかしたがる、墨絵のように、縮みのように、和紙のように。西洋はそれをよくないという。それは単に西洋の論理であり、日本はぼかしの良さ(はっきりさせない東洋の美として日本人自身もその良さを自覚せず、西洋の指摘から欠点であるかのように見なしがちである)をはっきり論理的に説明すべきだろう。
[ぼかしは矛盾的自己同一から来る]
◎矛盾的自己同一を肯定するならば、白と黒とにはっきり分けられない。「はっきり分けられない」は、はっきりと分けた言い方だが、ここが矛盾的自己同一の良いところとニヤニヤ笑いながら逃げておく。
[言葉は推移を盛り込めないので、食い違い・掛け違いが生じる]
◎言葉は時間的空間的推移を盛り込めない。言葉は「大人」とか「子ども」とか、あたかも切手シートから一枚の切手をもぎり取るように、その一面を切り取る。それなのに言葉を使う側や聞く側は、言葉が盛り込めなかった推移、前後左右上下的広がりを読み取らないことが多い。俳句の鑑賞で示した読み取りを必要とする。言葉の背後に広がる事実を感じ取ることを忘れると、すれ違い・食い違い・掛け違いが生じる。
[現実は映画のように連続的な動きであるのに、言葉に置き換えると動きが止まる]
◎一つの言葉は一枚の写真、本来はその前後左右上下にも延び広がるのに、その一瞬だけを切り取る。現実は映画のように連続的な動きであるのに、言葉に置き換えると、動きが止まり、固まり、つながりが切れ、分離する、つまり分別する。
[階層構造の最下層は細切れの世界で、最上階層はすべてが統合されて一つ]
◎階層構造の最下層は細(コマ・小間)切れの世界である。自我はそのこま切れに言葉を貼り付けてゆく、一つひとつの商品に値札を取り付けるように。不立文字はすべてが統合されて一つになった最上階層の真理世界の方を見よと呼びかける。左脳は下を見つめるが、右脳は仰ぎ見る。

不立文字

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