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第十五章 絶対無を目指す宗教 [117]わがままからあるがままへの死の受容

[117]わがままからあるがままへの死の受容
[あるがまま・現実肯定は自己統一が完成した者のみが言い得る]
◎あるがまま(現実肯定)は自己統合(最高階層に到達)を完成させた者のみが使い得る言葉である。上昇途上は現実否定(自分否定)である。「不」「無」「滅」などの否定の連続である。
◎今主流のプロパンガスによる熱した空気で浮き上がる熱気球は違うが、軽いヘリウム・水素の気体を入れて浮遊させる飛行船は、砂袋を少しずつ捨てながら上昇する。そのようにして上昇をはかる気球のように人は現実否定(現実の振り落とし)によって上昇を勝ち取る。
[あるがまま(無為自然)は、神の御心(自然)のまま]
◎あるがまま(無為自然自然法邇)は、神の御心(自然)のままであり、それに対して、わがままとは自我の心のままに(人為)である。あるがままは、自我が持つ意志を無意識・神へ権限譲渡し、無意識・神から降って来る御心のままに行為する。犠牲を捧げて、神の荒ぶる心を鎮めるのではなく、自我意志を捧げて、神の御心に従うのが、本当の犠牲の捧げ方である。
[死を悟ると、我がままからあるがままの受容へと推移する]
◎スイスの精神科医キュブラー・ロスは末期ガン患者の死に至るまでの心理状態が段階的に変遷する事実に出会った。
◎ガン宣告を受けたとき、そんなはずがないと否認(現実否定・受け取り拒否)→事実を認めた上での怒り(羨望・恨み・非難)→自我よりも大きな存在がうっすら意識されていくぶんか自我放棄に向かう(酒はやめるからのような)取り引き→すべては無駄だと抑うつ(虚無主義)になるが、これは部分的自我機能の停止→自我放棄(自我意志の停止・自我の死)によって無意識の流れに乗り、すべてをあるがままに受容(現実肯定)する。
[死の受容は弁証法的展開]
◎心理は、否認・怒り(取り引き)の我がまま(自我中心)から抑うつ(機能停止)を経由してあるがまま(無為自然)の受容へと推移する。これは弁証法的展開だといえそうである。我がまま(自我が気に入ったもののみ受容・正)から抑うつ(反・自我機能の停止)を経由してあるがままの受容(すべてのものの受容・合)。
[自然法爾は、人間的な分別を差し挟まない、手を加えない態度]
自然法爾は、人間的分別(はからい)を持ち込まず、自然のままで加工しない。そのことによって人間内部の自然(下位システムとしてのミクロコスモス)の働きと宇宙自然(上位システムとしてのマクロコスモス)の働きとが呼応する・歯車がかみ合う。
[人間が下位機械の歯車化される]
◎映画監督兼俳優のチャールズ・チャップリン(1889-1977)は、「モダンタイムズ」で、人間が歯車になる、機械によって人間が奴隷化される恐ろしさ・悲惨さを演じて見せた。その中での歯車は人間以下、機械の部品か奴隷を意味する。人間が本来下位システムであるべき機械の一部(下位システム)として組み込まれることを表現する。
自然法爾での歯車(人間)と歯車(仏)との呼応は、上位システム(仏)から情報・エネルギー・物質が下位システムにフィードバックされる。
[自我の死は我がままからあるがままへの移行]
新約聖書で、十字架にかけられたイエスが苦しみながらも最後に、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と述べる。
◎イエス(ミクロコスモス・下位システム)が父=神=自然(マクロコスモス・上位システム)に運命をゆだねる。これは我々人類全体への手本である。
[キリスト教は自我の死と自己の再生をめざす]
◎イエスの十字架死に象徴される自我の死は我がまま(私)からあるがまま(父)への移行(ゆだね)である。アダムとイブ(人類)による楽園での自己(あるがまま)から地上での自我(我がまま)への堕落(楽園追放)は、イエスによって自我から自己へと(天国)復帰した。
◎かくてアダムとイブ(人類)の楽園追放はイエス(キリスト)によって復帰(回心)が果たされた。つまり、キリスト教は自我の死と自己の再生を目指す宗教だといえそうである。
[あるがままは自分の意志を自然・神・法にゆだねる]
◎我がままは自分の意志を下位階層(感情)にゆだねる、自分の意志(上位階層)が感情(下位階層・ヘビで象徴)に操られる逆転現象である。人間が機械化・歯車化されるのと同様の転落(堕落)である。それに対して、あるがままは自分の意志(下位階層)を自然・神・法(上位階層)にゆだねる自然な態度(無為自然)である。
[ゆだねる相手を見極めねばならない]
◎所が、ゆだねる相手が見せ物的催眠術師であれば、「あなたはニワトリです」といわれてニワトリにされたり、悪徳教祖にゆだねて悪事を働かされたりする怖さがある。真の導師を見出すのは至難の業である。
[アブラハムの意志(イサク)を神に引き渡した後、再度彼に与えられる]
旧約聖書(創世記)に登場するイスラエルアブラハムは、神の命令で一人っ子である我が子イサクを犠牲として捧げふたたび神からイサクが下し与えられる。単純化して見ると、イサクをアブラハムの意志と置き換えると、アブラハムの意志(イサク)を神に引き渡した後、再度彼に与えられる。その結果アブラハムの上位意志として神が位置する。
アブラハムがしたように、我がまま(自我優位)から、自分の一つしかない自我(意志)の死滅という形で犠牲として仏に捧げ、神・自然のあるがまま(上位意志)に従う、振る舞う。
[自我的意志を捧げて死ぬと自己(神の意志[命・働き]の仲介者)として蘇生]
新約聖書はいう、「自分の命を得ようとする者は、それを失うだろう。しかし、私のために命を失う者は、それを得るだろう」と。
[自我の意志を守ると自分内の神が死ぬ]
◎上位者(私=神)に自我的命(意志・働き)を捧げて(自我的に)死ぬ・失う者は自己(神の意志[命・働き]の仲介者)として生き返る。逆に自我の意志を守ろうとする者は、自分の中の自己(神の働き)が失う・死ぬ・機能しない。
[自我(枝・特殊・下位システム)は自己(木・普遍・上位システム)につながる]
◎イエスの弟子ヨハネによる福音書はいう、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と。
◎自我(枝・特殊・下位システム)は自己(木・普遍・上位システム)につながる、幹(自己)から分岐して枝(自我)が延びる。実を結ぶとは、悟りを開いて本来の自己になり、木(幹)から情報・エネルギー・物質がフィードバックされる。