宇宙原理があなたの中を貫流する

このブクロを通じて宇宙を網羅する基本法則を提示していきたい。

第十六章 絶対無に憩う悟り [120]自然に逆らわない、あるがままの従順

[120]自然に逆らわない、あるがままの従順
[心の欲する所に従えども矩を踰えず]
◎「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」は、論語(為政)にある有名な言葉である。自分の思うがままに行なっても,正しい道から外れないと、孔子70歳の心境を述べた。孔子の心(下位システム)と宇宙自然(上位システム)の法則とがかみ合ってフィードバックし合って働き合う。
[全体は部分に優先される]
◎構造・システムは全体(の持つ目的)が部分・要素(の働き・機能)に優先(上位階層)される。地球環境を考えれば納得されるだろう。自然が壊滅すれば、動植物はひとたまりもない。地震が台風が我々にその事実について警告を発する。
[個人は自分の法則に従って動いても、全体構造がもつ普遍原理を越えない]
◎各部分自身もそれぞれ異なる独自の法則を持つが、全体構造も同様に全体を覆い尽くす固有の法則を持つ。個人は自分の法則に従って動いたとしても、全体構造がもつ矩(宇宙法則・普遍原理)を越えない。例えば、民法・商法はそれぞれ特定の範囲を規定するが、最上階の憲法に外れることはない。
[自然に反すると見えるものもより大きな枠組みから見ると自然に従う]
◎時計内の部品はどれもさまざまな一見バラバラな動きをするが、「時を刻む」目的からは外れていない。アリストテレスは、「自然に反することも、ある意味では、自然に従っている」という。
◎自然に反すると見えるもの(特殊)も実はより大きな枠組み(普遍)から見ると自然に従う。とはいえ、自我で生きる者どうしは互いの動きがかみ合わないので、多くは作用と反作用とで打ち消し合う。
[従順は、自然法則に対して我を立てず、流れに身を任せる]
◎従順は、自然の法則に対して我を立てない、流れの中に身を任せる、流れに竿を差さない。孔子は60歳にしてそのような従順(耳順・素直)の境地に到達した。それに対して、流れに逆らうことが我を立てる業(カルマ)である。
[自然との一体性と調和とを心に抱いて、我執から解放されて自然に基づいて動く]
◎カルマから解放されるとは、自然との一体性と調和とを心に抱いて、自我の執着から解放されて自然に基づいて行動する、無為自然体である。カルマは環境と切り離された自我的、自我執着的行動である。
[自然の力に任せて抵抗をやめる則天去私]
◎小説家・英文学者夏目漱石(1867-1916)は、晩年に我利我利を捨てて太平な世界に身をまかせる「則天去私」の境地に達した。彼の心の目は自らを離れて(去私をして)天道を歩む(則天する)名無しの猫に乗り移る。
◎その猫は最後に酔っぱらって水の張ったかめに落ちてもがくが、「がりがりはこれぎりごめんこうむるよ」と自然の力に任せて抵抗をやめた。そうすると「ふかしぎの太平に入」り、「太平は死ななければえられぬ」と念仏を唱える。私の遙かかなたを歩む名無しの猫である。漱石は悟りに近い(死の淵をさまよった)体験をしたと感じさせる一コマである。
[人為的なはからいを排除して宇宙の働きに従順する自然のまま無為自然]
老荘は人為的なはからいを排して宇宙の働き(他力)に従った自然のまま(あるがまま)「無為自然」を提示した。それに対して、儒教は人間(社会・個別・特殊)原理=徳=人格を高める精神的能力(勇気・正義・礼節)、人為的努力段階(自力)で社会をよくしようという。逆に無為自然人間原理(自力)を乗り越えて自然原理(=道・他力)を歩めと命じる。
[思うままに振る舞えば自我のまま・人為的・我がままになる]
◎よくあるのは無為自然「自然のまま」(あるがまま)を「我がまま」と誤解する。人は幼児(天使)を越える(堕落する)と自我(アダムとイブ)が主導権を取るので、思うままに振る舞えば自我のまま・人為的・我がまま(楽園追放)になる。
[思うままに振る舞えるのは私去・無為の階層に登ってから]
◎思うままに振る舞っても、それでもなおかつ無為自然、矩を踰えない、則天であるには、孔子が70歳にしてようやく達し得た自我を越えた心境(去私・無為・無我・無心)に至っていなければならない。
[無為自然にまで至るには、相当に人為的な努力が必要]
無為自然にまで到達するには、相当に長期間の人為的な努力が必要である。未我→自我→無我・超我(超自我ではない、超自我はまだ大幅に自我を引きずっている)、未合理→合理→超合理、動物→人間→仏性、動物(本能)原理→人間(道徳)原理→宇宙・自然(普遍)原理と三段跳び(ホップ→ステップ→ジャンプ)をしてゆかねばならない。
[捨てねばならぬ・越えねばならぬ自我を持たない野の百合]
◎「野の百合を見よ。働きもせず紡ぎもしない」とキリスト(マタイ福音書)はいう。
◎「野の百合」には捨てねばならぬ・越えねばならぬ自我がないのが羨ましい。自我が働かせる、紡がせる、角が立った智を働かせる、窮屈な意地を通させる。自我はカーナビのように私たちの進む道を指し示す。
[野の百合は余すところなく自分を謳歌する]
◎「野の百合」は生まれてから死ぬまで自然のまま無為自然である、しかも余すところなく自分を謳歌する。それに比べて、他人の目を気にし無駄なあがきをする私自身の小ささ・惨めさ・小ずるさを感じさるを得ない、涙があふれそうである、九ちゃんとともに上を向こう。
[自分を精一杯生かしながらも天命に逆らわずに従える]
孔子は50歳で天命(宇宙万物を動かす天の働き・宇宙原理・法)を知った、つまり直観能力が開花した。さらに60歳にしてその天命に逆らわずに従える境地(耳順)に到達する。70歳にして、単に従うのではなく、野の百合がそうであるように、自分を精一杯生かし(個性全開花させ)ながらも、それが天の働きに即した行動となる段階にまで達した。
[知るといえども成し得ず、知行合一は至難の業]
孔子ですら70歳にしてようやくキリストにたたえられた野の百合に負けぬ心境に至る。三歳の童子知るといえども、七十の翁これを成しえずである。「知る」ことから「成し得る」までの距離の遠さよ。知行合一は至難の業である。