宇宙原理があなたの中を貫流する

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第十六章 絶対無に憩う悟り [121]自我(自力・意志)から自己(他力・無心・無念)への悟り

[121]自我(自力・意志)から自己(他力・無心・無念)への悟り
[自我は長時間感覚刺激を奪われると心理的異常をきたす]
◎感覚情報によって形成され維持される自我は長時間感覚刺激を奪われると、情緒面で不安定となり、思考は混乱し、幻覚を生じるなどさまざまな心理的異常をきたし、さらに外部からの暗示を受け入れやすくなる。つまり情報欠乏症状(情報飢餓)を呈する。
◎とはいっても、内面に専心できる瞑想に慣れた者、(情報的)無を体験した者には該当しないが。
[瞑想は刺激に対してあるがままに流す]
◎瞑想で感覚が働いて(ボトムアップして)はいけないのではなく、それに心を止める、意識・注意が向かう(トップダウンする)のがいけない。感覚器官が刺激を受け入れても、意識内で止めないで、あるがままに流してゆく。とはいえ、意識内に感覚情報が流れない状態になることもあり得るが。
[動くものに目がゆく・注意が向かう・意識が立ち上がる本能的傾向を持つ]
◎しかしながら、私たちの体は動物(本能)原理で動く。動く・刺激するものに目がゆく・注意が向かう・意識が立ち上がる本能的傾向を持つ。この本能(自我の源泉)を乗り越えなければならない。この本能を飼い慣らさねばならない。荒ぶるオオカミを従順なイヌに変えねばならない。修行が要るゆえんである。オオカミ(大神)にエサ(さい銭)を投げ与えるだけでは無理である。
[智慧・悟りは、無分別のあるがまま、自分が本来仏である体験]
◎仏教の二本柱は、孔子が五十歳で開花させた直観的智慧(知的認識面)と慈悲(情的実践面)とである。智慧・悟りは、自我の死・消滅・崩壊・無化、無我・没我・無心、身心脱落、カルマ・輪廻・煩悩・本能・欲望・執着からの解放・解脱・離脱・放下、一切の規範や法則からの自由、知的対立の世界を超越して無分別のあるがまま・自然法爾の世界、本源(無)への帰還、本来の自己は空性(本来無一物・無自性)との自覚、自分が本来仏である体験である。
[真の自然は自然を否定した上に出て来る無心とか無念]
久松真一は「禅と美術」でいう。芸術における自然について、「自然物や子どもには真の自然はないのであります。真の自然は、むしろそういう自然を否定し、更に普通にいう意志をも否定して、その上に出て来る無心とか無念であります」と。
◎彼の言葉は、無意志単純自然・動物(本能)原理(自然物・子ども)→意志・人間(道徳)原理→無為自然・宇宙原理(無心・無念)=真の自然へ、と登る階層構造を言い表す。
[本当の自然は、より高い秩序を持つ自然、より広い視野に立つ自然]
◎人間には雑然たるバラバラの自然(野に咲く花の自然)は未開拓自然であり、一つに統合された自然(花瓶に生ける造形的自然・花瓶と花とが渾然一体となった自然さ)が本当の自然(無為自然)である。手を加えた上での手を加えていないかの如くの自然な自然、より高い秩序(統合性)を持つ自然、より広い視野に立つ止揚した自然。
[知性ある人間には雑然たる自然は違和感を与える無秩序自然]
◎むだ毛を抜き取り、櫛を入れた髪が手を加えた自然さで、寝ぼけまなこでぼりぼりかきむしる自然な髪は雑然たる自然である。知性(自我)を身につけてしまった人間には雑然たる自然は違和感のある心落ち着かない無秩序自然である。
[知性過剰・秩序過多の人為を日本人は嫌う]
◎所が、日本人にとっては西洋の美は知性が勝ちすぎた秩序過剰(抽象度が高い)の自然(人工)であり、その秩序過剰・人的(人為的)秩序をさらに今一歩突き抜けた無為自然(これは奇数好みにも現れている)を日本人は好む。これは自然を取り入れた趣味にも生かされている。
[意志は自分完成にはぜひとも必要だが、他力に飛び込むには障害]
◎悟りを得るためには、本能に打ち勝つ強い意志(外的世界への無関心、内界専心の保持と注意持続)が必要だが、前半で必須だったその強い意志が悟りの妨げになる。意志は自分完成にはぜひとも必要だが、他力に飛び込むには激烈な障害である。自分完成後には意志を脱ぎ捨てねばならない、空を舞う(他力に飛び込む)ためにセミが蝶がトンボがするように。
[無為自然は自分の意志が神の意志の内に没入した上での自然体]
エックハルトはいう、「意志が一切の我性から解き放たれている時、また意志が自分自身の外に脱け出して、神の意志の内に没入しそれと一致するように形造られ、また形を変えられている場合には、意志は完全にして且つ正しいものとなるのである」と。
無為自然は自分の意志を神の意志の内に没入(意志を自我から自己へと移植)した(意志を神に献納した)上での自然体である。西洋美術は自分の意志が表にしゃしゃり出ている。
[個人は超個人(普遍)の自己限定(特殊)、意識は無意識の自己限定]
◎個人は超個人(一般・全体・普遍)の自己限定(特殊・部分)、意識は無意識の自己限定である。無意識の海に結界を張ったのが意識(自我)である。海(無意識)から陸(意識)に上がった人間は死ぬ(無になる)ことによって海(無意識)に帰る。土から地上に芽を出した樹木が枯れることによって土に帰るように。
[目覚めの意識と眠りの無意識との連結が悟り]
◎悟りは自覚が必要である。涅槃は眠りである。眠りは無意識である。無意識は自然法則があるがままに働く。自覚は意識である、目覚めである。故に、悟りは目覚めたまま眠る。動物は無意識が強すぎるし、人間は意識が強すぎる。片寄りを取って目覚めの意識と眠りの無意識との対等・平等な連結が悟りである。水中(無意識)で目(意識)をつぶったまま泳いでいた者が目を開けて泳ぎ出した瞬間が悟りである。
[劣位側の活動は優位側(左脳)へ伝達された後に意識・自覚される]
◎分離脳患者(てんかん発作を止めるために左右の脳半球の連結[脳梁]を手術によって切り離された人)は劣位半球(通例は右脳)において起こるあらゆる出来事に対して自覚(右脳から左脳への情報の流れ)がない。劣位側の活動は優位側(左脳)へ伝達された後に初めて意識・自覚される。
[究極的自覚は深奥の自己が本当の自己だと悟る]
◎自覚(階層上昇・俯瞰・止揚)は、無意識側の直観(全体的合一)即意識側の反省、下位階層での知識・情報の上位階層での読み取り、自己が自己の中に自己を映す(無意識から意識へ移し出す)。
◎究極的自覚は、エリクソンがたどり着いたように、自分の内奥に真実(本来)の自己がいることを体験的に知って、それがまさに本来(本当)の自分なのだと悟る。
[自我を消した後に来る自覚は自我による自覚ではない、仏の覚醒]
◎自我を消した(自我機能の停止)後に来る自覚はもちろん自我による自覚ではない、仏(本来の自己)の覚醒である。自我が受ける外・下から来る水(感覚情報)を止めて、魂が上(梵)から来る雨水(智慧)を受け入れた瞬間、この瞬間は突如として来訪する。これが本当の改心・回心である。
[思考は制約(時間・空間・因果が現れ出る下位階層)の中で働く]
◎最上階層はすべてが揃うとも、何もないともいえる、無一物中無尽蔵。階層を下がると時間・空間・因果が分岐(自己限定)して現れ出る。思考はそれらの制約の中で働く。人生は舞台装置(時間・空間・因果)のある舞台上での芝居であり、悟りは舞台の背後にある楽屋(最上階層)をのぞく能力である。
[あらゆる宗教において主に至る道は同じ]
◎インド近代の神秘主義的大宗教家ラーマクリシュナ(1836-1886)は、ヒンズー教の見神体験、イスラム教での見神体験、キリスト教においての見神体験を経た結果、あらゆる宗教において神へ至る道が同一である(すべての宗教の真理は同一であるという不二一元論)と主張した。
[主(神・仏)は属性のない、形のない絶対的なもの]
◎彼は、「瞑想の極致において、ブラフマン認識の高みに到達した者にとっては、主は属性のないブラフマンであり、形のない絶対的なものである」という。
◎白いといえるのは他の色がないことであり、三角といえるのは、周りに空白の間があるからである。欠けることによって、属性が形が浮かび上がる。すべてがあるのはすべてがないのと同じである。
[悟りは新たな観点を得て現実をあるがままに受け入れその中で全力投球]
◎悟りの前と後で現実が変わるわけではない、変わったのは自分の方である。今までは現実を変えようとか、現実から逃げようとか、誰かが現実を変えてくれるのを待っていたのが、現実をあるがままに受け入れその中で全力投球しようとする。
[悟りは人生をひっくり返すほどの視点の転回]
鈴木大拙は、悟りを「人生および世界全体に対して、吾々の今までの立場を全くひっくりかえして、新たな観点を得ること」という。
◎人生全体、世界全体をひっくり返すほどの視点の転回をいう。自我から見る世界と、世界全体の中に自分を見るのと。
[鈴木大拙は東洋思想・文化を欧米に広めることに貢献した]
鈴木大拙西田幾多郎と同じ学校で学び、欧米に渡り英文で仏教(特に禅)を紹介し、ユングとも親交があり、東洋思想・文化を欧米に広めることに多大の貢献をなした。彼は日本でよりも外国において哲学界・思想界に大きな影響を与えた。
[悟りは直観的にものの真相に徹底する矛盾でありながら矛盾でない境界]
鈴木大拙はいう、「悟りは未分化の場を未分化のままで会得することであり、分別や限定にゆだねるものではない」と。
◎悟ることによって、「今まで論理的に、二元的に見ていたものが、その対立の相、矛盾の相が消えて、矛盾でありながら矛盾でない境界が開ける」と。
◎「禅問答と悟り」の中で、「論理的或いは分析的なものの見方に反対して、直観的にものの真相に徹底する」ともいう。
◎波は山と谷(反対物)があってこそ波といえる。前後に、左右に、上下に、表裏に分化する、分別する、限定する、対立する以前のままを見る。
[禅の論理は即非の論理=肯定即否定+否定即肯定]
◎禅の論理を、鈴木大拙は「即非の論理」(=肯定即否定、否定即肯定)と呼ぶ。「即」は、「すなわち」「そのもの」「そのまま」「直接」「媒介なしで」の意味だが、この場合には肯定を言い表す。
[即非の論理は階層構造で説明できる]
即非の論理とは、肯定でもあり否定でもあり、否定でもなく肯定でもない。これは階層(視点)を異にするが故に、(ある階層から見れば)肯定といえるが、(別の階層から見れば)否定といえる。部分肯定(否定)である、丸ごと(全階層を通しての)肯定(否定)はできない。
[禅の論理は対立のままで自己同一(矛盾的自己同一)]
即非の論理は、対立(矛盾)のままで自己同一(矛盾的自己同一)である。「山は山にあらず、故に山と呼ぶ」と。
◎これは正反合の弁証法的展開である。分別心(自我の階層)で山という→無分別心(自己の階層)では山にあらず→所が「分別心+無分別心」と両階層を合した視点(矛盾的自己同一)からは分別心を含むので山と呼ぶ。
◎色(分別心)即是空(無分別心)→空即是色(無分別心+分別心)。分別智(色が存在)→無分別智(空=色は存在せず)→後得智(分別智+無分別智=色が存在する智の階層を含む)。悟りの世界は(矛と盾とが切り離された)分別の世界と無分別(矛盾的自己同一)の世界とをともに包み込む。
[人間を自然に合うように作り替える]
鈴木大拙は、「大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れ、自らも大地となることが出来ると、大地はその人を己が懐に抱き上げてくれる」といった。自然を人間(自我)に合うように作り替えるのではなく、人間を自然に合うように作り替える、作り直す、造り主の形(無為自然)に従って新しくする。人間は自然の居候であるのに、三杯目でもお茶碗をぐっと出し。
[悟りは、個人無意識から抜け出して集合無意識(宇宙無意識)に同調する]
◎悟りは、個人(個人無意識)から抜け出して集合無意識(鈴木大拙は宇宙無意識という)に同調する。(下から昇って来る感覚情報を受け取る)ボトムアップ方式(直感)から(宇宙無意識から降りて来る情報・知恵を受け取る)トップダウン方式(直観)に切り替える。個人(特殊)として生きることから、種(普遍・人類一般・宇宙人?)として生きる。上昇志向・個人的成長から下降志向・人類成長・人類共存・自然共生に切り替わる。