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第十六章 絶対無に憩う悟 [124]さまざまな個性的な悟り・霊的開眼の瞬間

[124]さまざまな個性的な悟り・霊的開眼の瞬間
[意味世界から臨界点を通過して無意味世界へ相転移する]
1)東洋哲学者・イスラム学者・言語学者井筒俊彦(1914-1993)は「意識と本質」で禅に関していう、「修行者がどんな意味を考え出しても、たといどれほど深遠な意味でそれがあっても、室内の参究はそれをたちどころに否定し粉砕してしまう。意味を考え出そうとしながら、かえって逆に一切の意味付与から遠ざかっていく。そのように指導されるのである。そして、意味を考えに考え、遂に理性的思惟能力の窮極の限界点に至り、更に一歩を進めて絶対無意味の世界に主体的に飛躍した時、突如としてそこに悟りの境地がある」と。
◎なお、「無意味とは、存在の結晶(分節)の完全な解消を指す」と。
[悟りは風船の爆発]
◎意味の世界(自我・合理の世界)→結晶(分節)の完全な解消(自我の解体)→絶対無意味の世界(無我・空・自己)への跳躍=悟り=意味世界から臨界点を通過して無意味世界へ相転移する、風船に空気を詰め込んで爆発した、砂時計の砂が下に落ち切った瞬間。風船(自我)を膨らませる(意味を考える)ことが目的ではないが、膨らませることなしに、爆発(悟り)は生じない。
[集中三昧は透き通って清々とした感じ]
鈴木大拙の「禅問答と悟り」にある表現を使って悟りについて少々の解説を試みる。何かにとりつかれた「高度の心力集中」三昧で、浦島太郎が亀に連れられて行った竜宮城にも似た「水晶の宮殿にいる」ような「透きとおって心地よく清々とした感じ」に包まれる、古池の世界・幽玄の山々に没入する如く。
[(自我・統合拠点の)爆発が悟りの瞬間]
◎ここから爆発の(自我・統合拠点の)破壊が悟りの瞬間である。その破壊は石にけつまずいたり、鐘の音を聞いたり、犬の吠え声を聞いたり、蛙が飛び込む水の音であったり、一鳥の鳴き声であったりの何気ない一押しである、シャボン玉を針でつつくような。
[肉の目で見ていた戸・窓・部屋・寺院は心の目(霊眼)では見えず]
2)ラーマクリシュナは悟り体験をいう、「すべての戸や窓ごと、部屋が、寺院全体が消え失せた。私には、寺院はもはやまったく存在しないかのように思われた。しかしそのかわりに、霊の、眼もくらむばかりの果てしない大海原が私の眼の前にあった。私が目を向けるあらゆる方向に、また私のまなざしのとどくかぎり、光り輝く大海の巨濤がいたるところでうねっているのを私は見た」と。
[自我による意味世界から霊による絶対無意味世界へ]
◎結晶(分節・核・自我)の完全な解消(肉眼から霊眼への切り替え)の瞬間の光景。肉の目で見ていた戸・窓・部屋・寺院は、戸として窓として部屋として寺院としては心の目(霊眼)では見えず、ただ光り輝く霊の一つながりの海(絶対無意味世界)が見えるばかり。肉眼は物質を見て、霊眼は例の物を見る。
[霊的開眼は、無の中に消えていく、存在者を消してしまう虚空に溶け去る]
3)ラーマクリシュナの弟子の霊的開眼の様子、「私は目を大きく見開いて建物の塀を見つめ、そのなかにあるすべてのものが渦を巻き、無の中に消えていくのを見た。宇宙が、また、私という個が、すべての存在者を消してしまうある名もない虚空に溶けてしまわんばかりになった」と。
◎彼は巨大竜巻のようにすべての存在を呑み込む空(虚空)世界をかいま見た。この表現から思い出すのは、ディヴィッド・ボームの言葉である。「虚空はかくのごとき厖大なるエネルギーをもって満たされており、われわれが物質として認識するごとき存在は、この大海に生じた一つの微細な小波にすぎない」と彼はいう。
[世界を、振動する黄金のエネルギーの諸パターン(振動の集合)として見る]
4)「トランスパーソナル心理学・精神医学」の中での悟り体験、「ある若い女性は、瞑想リトリートの最後に近い三日間の期間に、世界を、振動する黄金のエネルギーの諸パターンとして見るようになり、これらの振動の集合である人や物を形として見ることができなくなってしまった」と。
◎形として結晶化する核、統合拠点である自我の完全崩壊が原因としてあるのだろう。その崩壊は階層構造(トーナメント形式)の最下位層(混沌の海・クォークの海)にまで行き着いたのだろう。
[天地崩壊と湧き上がり押し寄せる歓喜の嵐]
5)山田耕雲老師の悟り体験。「一瞬電撃を受けたようなピリッとしたものを全身に感じたと思うが否や、天地崩壊す。間髪を入れず怒涛の如くワーッと湧き上がってきた大歓喜、大津波のように次から次と湧きあがり押し寄せる歓喜の嵐。あとは只口いっぱい、声いっぱいに哄笑する。哄笑の連続」と。
[宇宙当体と音と自分とが一つになったことを直覚]
◎次はそのような悟りについての中西政次の解説、「香厳和尚が、小石まじりの塵を竹藪に捨てた時、竹に小石が当たってカチーンと音がした。その音によって悟りを開いたというが、その音が宇宙の当体より発した音と直観したのであろう。もっと極言すれば、当体と音と自己とが一つになったことを直覚したのであろう」と。
[肉体の感覚器官は外からの音として受け取る]
◎宇宙当体(=梵)と自己(=我)とが音に関して一如(=一体)であるということだろう。宇宙当体と自己とは切れ目のない霊の海、それを肉体の感覚器官は自分とは切り離された外からの音としてとらえる。「外からの音」から「内で鳴り響く音」へと切り換わる。
[屋根も山もすべてが異様に光り輝いて見える]
6)中西政次自身の悟り体験、「庭を見ると樹々が燦然と光って見える。苔も濡れたように青々と輝いて見える。目をあげると、屋根も山もすべてが異様に光り輝いて見える。更にそれらの奥に、すばらしい何物かが見える」と。
◎「大地山河の悉くが法身であることが直観できる眼が開いたのだ。すべてのものが宇宙の当体そのものとして見える」と。
◎この表現からすれば、まだ肉眼と霊眼とが共存する段階にあるようだ。
[自己の根底を破って衝き上げる激しい生命力]
7)阿部正雄の体験、「阿弥陀如来ここを去ること遠からず」という一句の意味を悟ったとき、「如何にしても罪の外なき絶望の底なき底につきあたった時、音を立てて自己の全存在が崩れゆく自己崩壊の唯中で、突如閃光の如く私に現れた念仏が、奔流の如き力をもって口から迸り出ました。自己の根底を破って衝き上げる、この思いもかけぬ激しい生命力に、私は没落する全身をうちまかせました。それは天地に念仏のみ響きわたる如き瞬間でした。そこに私は新たなる自己の誕生をみとめざるをえませんでした」と。
◎この文から一遍の句、「唱うれば仏も我も無かりけり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」が思い浮かぶ。ただ天地に念仏のみが響きわたり、自己の全存在が崩れゆく自己崩壊=結晶(分節)の完全な解消(自我の解体)=私という個が虚空に溶けてしまう体験。
◎阿部の場合は、念仏が奔流の如くほとばしり出るが、耕雲老師にあっては大津波のような哄笑の連続を伴う。それぞれの個性を映し出しているように見える。
[意味が、卒然心の中で爆発して一時に解決がついた]
8)鈴木大拙は「禅問答と悟り」で宋の高峰の悟り体験を紹介する。「その問いの意味が、卒然心の中で爆発して一時に解決がついた」、「十方にわたっている空間がこまくちゃに崩れたようで、そうしてこの大地が悉く平坦になったような気がした」と。
阿部正雄もそうであったが、宋の高峰でも問いの意味を悟る直観能力の開花(知的悟り)と自我と空間(の枠組み)が崩壊する霊的開眼(身体的悟り)との二方向がある。
[自分らしい身体はあるのに肝心の自分が居ない]
9)窪田慈雲禅師の悟り体験、「ちょうどホームに着く頃電車がゴオーと物凄い号音を響かせて入ってきた。その音を聞いた途端、全く自分が亡くなってしまった。確かにカバンをぶら下げている手や腕はある。階段を降りている足はある。だが自分はどこかに吹き飛んでしまってどこにもいない。不思議な光景となった。自分が居ないが自分らしい身体はある。自分らしい身体はあるのに肝心の自分が居ない」と。
◎この表現から身心脱落を思い浮かべる。吹き飛んでしまった自分は自我であろうか。また「自分が居ない」と感じる主体は誰であろうか。梵から分有された我(覚醒した仏)であろうか。存在する身体(肉体)と居なくなった自分(自我)とそれらを感じる主体(本来の面目)と。透明人間は肉体が透明になるが、窪田禅師の場合は心(自我)が透明(無我・空)になっている。
[声がカラッポであり、私もその他すべても完全にカラッポ]
10)ワキオン・ボーイ氏の悟り体験、「坐禅中に犬の鳴き声を聞いたとたん、その声がカラッポであり、この私もその他すべても完全にカラッポであることに突然気がついた」と。
◎「カラッポ」=「空」を連想するが、「自分が居ない」と同じ感覚(透明感)であろう。自分という殻(=自我)が爆発粉砕した、自分の身体でありながらもはや自分のものという所有意識(自我)が吹き飛ぶ(崩壊瓦解・本来無一物)体験だろう。
[大声でいさめるのを聞いた途端に、身心脱落の悟り]
11)道元禅師は中国で如浄和尚に心を全身に充満させよと言われて坐禅した。ある時打座中に如浄禅師が大声で修行僧をいさめるのを聞いた途端に、身心脱落の悟り体験をした。これはワキオン・ボーイ氏や窪田慈雲禅師の悟り体験と同じであろう。
[松の巨木と大拙の区別が全くなくなり、自他不二の一体になる]
12)鈴木大拙の悟り体験。彼は鎌倉円覚寺で参禅を終わって山門を降りて来たときに、月明かりの中の松の巨木と大拙の区別が全くなくなり、松の木と大拙が自他不二の一体になる。これは自分と他人との境界線が取っ払われて、連続した一続き、梵我一如の中西政次タイプの悟り体験だろう。
[鐘がゴーンと鳴ると、つっぱったような気持ちが一時に崩れた]
13)白隠禅師が新潟県高田の英巌寺を訪ね、性徹の下で修行中の悟り体験、「或る晩にお寺の鐘がゴーンと鳴ると、それで今までのつっぱったような気持ちが一時に崩れた」という。
◎このようにして白隠は遠くにある寺の鐘が鳴ったとき豁然大悟した。鐘の音、イヌの吠え声、電車の号音、禅師のいさめ声、などなどは単なる次の段階へのきっかけであろう。卵の殻が割れた瞬間のように。
[悟りとともに傲慢の言葉も発した]
◎その時、「三百年来、未だ予が如き痛快に了徹する者は有らず、四海を一掃して誰か我が機鋒に当たらん」と白隠禅師は傲慢の言葉をも発した。
◎ジャックも経験した自我がそのまま大我になる傲慢を叩きつぶすためにさらなる修行が積まれた。さらに長野県飯山の正受庵で正受老人の下にあって、托鉢の途中老婆に竹ぼうきで打たれて忽然と悟りに没入した。
[吾浴衣を着るにあらず、浴衣吾に着するにあらず]
14)石田梅岩の弟子で後継者の心学者手島堵庵(1718-1786)は、二十歳の折り、風呂から上がって浴衣を手にしたとき、「忽然として吾浴衣を着るにあらず、浴衣吾に着するにあらず、然も如是にして更に疑いなし」と悟った。
[自我という固定点が消えると関係も消える]
◎「吾浴衣を着るにあらず、浴衣吾に着するにあらず」とは、吾(=自我意識)が消え去った。つまり、固定点が消えたがために、吾(=主語)と浴衣(=目的語)との関係も同時に消え去った。ただ営み(動作)だけがあった、千利休も体験したであろうように。
[さらに疑いなしは最終根拠に行き当たった]
◎また「更に疑いなし」といえるのは、これ以上疑いを入れる余地のない根拠(最終・最高地点)に行き当たった。自我は停止をしない限り無限を行く、故に根拠に行き当たるには自我の停止以外にはない。
[自我はまゆか殻か羊水に包まれて生きているのか]
◎これらの体験を読んでいて思い浮かぶのが、さなぎを破って出て来た蝶、卵の殻をつつぎ破って顔を出したひよこ、あるいは母親の羊水が破水して生まれ出たえい児。私たちは自我のまゆか殻か羊水に包まれて生きているのかも知れない。