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第十六章 絶対無に憩う悟り [126]わび・さびは禅の影響で物の貧しさと心の豊かさを表現する

[126]わび・さびは禅の影響で物の貧しさと心の豊かさを表現する
[東洋的生き方は、わび・さびという心の豊かさと物の貧しさ]
◎東洋的な生き方は、心の豊かさと物の貧しさである。物質的な貧しさの中にあっての精神的な豊かさが「わび」であり「さび」である。世俗的な美感に対して、わび(飾りのない落ち着いた閑寂な味わい)やさび(古びて枯れて趣があるしぶみ)が尊ばれる。
◎そういう定義をしてしまうと、日本はもはや東洋ではなく、西洋破れかぶれである。アジアから東洋がどんどん消滅しつつある。ともあれ、過去の日本人の心の豊かさを見てみよう。
[わびさび的美感]
◎山路来てなにやらゆかし菫草。松尾芭蕉
◎くたびれて宿かる頃や藤の花。松尾芭蕉
◎見わたせば花も紅葉もなかりけり、浦のとまやの秋の夕暮。藤原定家
◎花をのみ待つらむ人に山里の雪まの、草の春を見せばや。鎌倉初期の歌人藤原家隆(1158-1237)の作。
[苦労の後のささやかな喜び]
◎夏の夜風呂上がりに飲むジュースのうまさ。何時間も悪戦苦闘してやっと問題が解けた喜び。寒い冬に腹をすかせて帰って食べる温かいうどんの味。
◎苦労した、耐えた、待ちに待った後でやっと手に入れたささやかなものは、大きな喜びを与えてくれる、それが一杯のかけそばであろうが。難なく手に入れたものはどんなに素晴らしいものであっても、さほどの喜びをもたらしてはくれない、一時の花火に終わる。
[マイナスを逆にプラスとしてとらえ返す]
◎わびはもともと失望・失意・不遇・零落の結果から湧き起こる気持ちをいう。つまり挫折によって起こった感情であるが、それをマイナスとして捕らえるのではなく、逆にプラスとして捕らえ返す。
[挫折経験を経て初めて知ることができる喜び]
◎豊かな生活からは絶対に感じないような何気ないこと、見過ごされがちなこと、ささやかなことに対して、挫折経験をくぐり抜けたことによって感じられる大きな喜びに焦点を当てるのがわび(さび)である。正(物の豊かさ)反(挫折)合(わびさび)の弁証法的展開である。
[物の豊かさが感受性を奪い取る]
◎山路来るという一日の旅路(大きな山越え)の後や、歩きくたびれた後に来る、スミレや藤の花に代表される、可憐さが与える暖かみ。心の豊かさは物の貧しさからしか生まれ出ないのではないだろうか。物の豊かさが心の貧困(ぽっかり空いた空洞)を産み出している、人から感受性を搾り取っている。挫折は人の心を鍛える愛のムチである。
[力強い言葉かけは、ワッと涙を滝して抱きつきたいほどの心強さを感じる]
◎わび・さび・幽玄とはいく味も違うが、同じく物の貧しさと心の豊かさとを感じる、江戸後期の俳人一茶(1763-1827)の句を賞味あれ。
◎我と来て遊べや親のないすすめ。
◎痩せがえる負けるな、一茶ここにあり。
◎悲しさに、寂しさに、苦しさにまさに打ちひしがれようとする、やせガエルの背中に、親なしスズメの心に、「一茶ここにあり」、「我と来て遊べや」の力強い言葉かけは、ワッと涙を滝して抱きつきたいほどの心強さ暖かみを感じる。
◎彼自身も不遇と苦渋の縄にがんじがらめに合ったような人生を送っている。それ故にか、他者(人にも動物にも)の悲しみにとても敏感でしかも共感的に受け止めている。これらの句は自分自身への声かけでもあっただろう。
[抱き留めを待つ子も多いが、それのできない親もまた多い]
◎世の中には「ここにあり」「来て遊べや」とはっしと抱き留めてくれる人(特に親)を待つ子どもたちは多い、とにかく多い。それなのに、我が子を抱き留められない親のまた何と多いことか。親自身がいまだ自分にしか目が行かず、心の空白を埋めるのに必死で、心の中にしっかり子どもを抱き留めていない光景に頻繁に(余りにも頻繁に)出会う。
[知るも地獄、知らぬも地獄]
◎心を閉ざすことによって(そのことでかろうじて)その悲しさ・寂しさを必死にこらえる(耐え切れなくなった子どもたちは爆発する)子どもたちの姿は、知る人には針のむしろである。その事情を知らぬ者にとっては、その姿はただ腹立たしいものに映るが。知るも地獄、知らぬも地獄。知らぬはほっとけともいうが。

藤原定家全歌集(補訂版)

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