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第十章 下降で増しゆく分解力と上昇で加速する統一力 [73]俳句は(部分を集めて全体を構想する)想像力を羽ばたかせる

[73]俳句は(部分を集めて全体を構想する)想像力を羽ばたかせる
[日本独自の短詩(俳句)愛好者は多い]
◎明治の俳人正岡子規(1867-1902)によって定着した俳句は、定まった形式(五・七・五の3句)を持つ、もちろん型破りもあるが。日本独自の短詩で、その短さが好まれたのか、海外でも俳句を自国語で作る愛好者は多い。
[制限が大きければ大きいほど、集中的にエネルギーを投入せざるをえない]
◎制限・限定が大きければ強ければ、エネルギーを集中的に投入せざるをえない。詠み手が17語の中に多くのものを詰め込めば詰め込むほど、言葉を吟味の上に吟味を重ねて凝縮・濃縮するほどに、素晴らしい俳句に触れると、心の中でそれが打ち上げ花火のようにはじけて、イメージが大きく膨らみ、ついには心全体を覆い尽くしてしまう。
[俳句は右脳の訓練になる]
◎それに対して、具体性を削り取る抽象性の高い言葉はイメージの喚起力がとても弱い。俳句は、詩歌はすべてだろうが、右脳の訓練・開発にふさわしい、感性を磨くにうってつけの文芸だと思える。
[素直な心で対象と向かい合ってその中に沈み込み、本質をつかみ取る有心]
◎平安末期から鎌倉初期の歌人藤原定家(1162-1241)は、素直な心で対象と向かい合ってその懐に沈み込み、本質をつかみ取り味わう態度を「有心」という。これは直観・覚に近い把握方法で、仏教では「無心」という。
[文芸の有心と仏教の無心は同じ心]
◎「有心」は、心ない動物的態度を意味する無心に対して深い人間的態度を表現する。しかし仏教の「無心」はそのような人間的態度を超えた心境を言い表す。とはいっても、実質的には両者(有心・無心)は同じような意味で使われる。
[素晴らしい俳句は感覚を触発する]
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
◎観賞者も有心(無になることによって生まれる素直な心)で俳句を味わう。「柿」と「食う」とによって触感(手触り・歯触り)・味覚・嗅覚・視覚(鮮やかな色彩)・聴覚(かじる音)が喚起される。「鐘が鳴る」によって聴覚(全身を包み込んでしまうほどの重低音あるいは秋空高く澄み渡る高音)が喚起され、「法隆寺」から広い敷地と高い建物が視野に浮かび上がる。
[観賞は詠み手が味わった世界の追体験]
◎視界が、柿→鐘→法隆寺(建物・敷地)と一点からパノラマ的広角へとずんずん拡大されてゆく。「柿」から秋だとわかり、澄んだ空気の中をゴーンと鳴り響く鐘の音、透明な空を背景に高くそびえる五重の塔や横に広がるどっしりした夢殿。観賞者は背後の空にまで視線をやって広々とした青空を満喫するだろう。これは詠み手が味わった世界の追体験である。ここまで来ると俳句(知識・技術を越えゆく)道といってもよいだろう。
[人は部分部分の感覚情報を組み立てて一つの世界にまでまとめ上げられる]
◎人は言葉だけから詠み手が浸ったのと同じような雰囲気の中に沈み込む想像力・空想力を持つ。これは一つの世界の構築である。動物は過去の記憶をそのまま(直観像を)再現・再生できるが、人は部分部分の感覚情報を言葉を頼りにして組み立てて一つの世界にまでまとめ上げられる。感覚情報を自在に切り取り、自在に組み立てる分解力・統合力を持つ。
[渦巻きのように一点へと吸い込まれてゆく歌]
歌人・詩人石川啄木(1886-1912)の「一握の砂」に収められた有名な次の歌は「柿食えば」の俳句とは逆に、東海→小島→磯→白砂→われ→カニへと、東海というパノラマ的広角から一匹のカニへと視野が収束されてゆく。啄木の性格がよく表された歌である。
◎東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて、カニとたわむる。