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第五章 矛盾しながらも統一する矛盾的自己同一 [37]統合へと向かう(上昇する)善と分離を誘う(下降する)悪

[37]統合へと向かう(上昇する)善と分離を誘う(下降する)悪
[悪魔は善悪合わせ持つ矛盾的自己同一]
ゲーテは「ファウスト」で、「悪魔は絶えず悪を欲しながらたえず善を造り出す力の一部である」という。
[悪はトリックスター]
河合隼雄は、悪はトリックスターの役割と共通するという。「トリックスターというのは、いたずらをしたり、悪さをしたりしているようですけれど、うまくいけばひじょうに建設的な役割を果たしますが、へたをするとものすごい破壊になってしまいます」と。
[トリックスターは変化をもたらすいたずら者]
トリックスター(動物・人物)は、神話・民話・おとぎ話に登場し、社会秩序をかき乱すいたずら者・ペテン師・道化の面を持つが、時に敵を出し抜いたり人間に知恵・道具・文化をもたらす。そのような点でトリックスターは退行した心理状態の具現ともいえる。トリックスター物語は物事が持つ善悪合わせ持つ矛盾的自己同一性を面白おかしく紹介する。
[悪は実際には悪ではなく、むしろ世界秩序に貢献する]
キリスト教の教父アウグスティヌス(354-430)は、悪を認めるのは世界を部分的にしか見ていないからで、悪と見えるものは実際には悪ではなく、むしろ世界秩序に貢献するという。
[新しい秩序は古いものの破壊によってもたらされる]
◎もはや正常に機能しない古い制度は打ち破られねばならないが、同時に新しい制度の確立が要求される。新しい世界秩序はまず古いものの破壊(悪)によってもたらされる。それ故、悪も部分的には善に貢献する。新しい秩序の確立まで視野に入れると悪も善として貢献している。
[悪は現状維持をくじかせ、善は休息をもたらす]
◎悪は、現状維持(休息・古い制度)をくじかせる最高階層からの統合の声である。善は、途中で憩う休息(幸福)である。悪は、その休息(惰性)を思い切らせ、執着(現状維持)を思いとどまらせ、完全な統合へと誘う上からの呼びかけである。
[最高階層では善悪はない]
◎最高階層(完全統一・最高善)まで到達すれば、もはや悪は不必要となる。それ故に、最高階層(絶対域)では善も悪もないが、善も悪も存在する。別の言い方をすれば、欠乏がない円満のために働く機会がなくすべてが平和に憩う。
[意志が下を目指すとき悪となる]
アウグスティヌスは「神の国」の中で、「意志がそれ自体、上にあるものを放棄して下にあるものに向かうとき、それは悪になる」という。
◎精神の向上(上からの声への呼応)をやめて肉体的物質的欲求(下からの声)の実現に向かうと悪になる。ゲーテがいうように悪魔は悪を望んでいながら時には不本意にも善を成す。が逆に私たちは善を望んでいながら往々にして不本意にも悪を成す、意志が弱ければ。
[飛躍のためにはしゃがむことが必要]
◎高い階層へと引き上げない、引きずり降ろす行為、新しいものを生み出さない破壊は本当の悪である。上への飛躍が統合(善)であり、飛躍のとき差異を作り出すためにしゃがまなければならないが。
[人間以下(生物界)にも人間以上(神世界)にも悪は存在しない]
◎人間世界(中間世界)では悪はあくまで悪である。人間世界以前の動物・植物世界では、悪は悪ではない。さらに人間世界を越え出た神世界でもしかり。人間以下(生物界)にも人間以上(神世界)にも悪は存在しない。人間世界にだけ悪は存在する。
[中間地点にいる人間には向上・統一へうながす起爆剤が必要]
◎人間は生物界と神世界との中間地点にいる。生物は神世界にいけないし、神は神世界にすでにいる。悪は向上・統合をもたらさない破壊である。矛盾的自己同一である善悪の内で悪だけが表面化して、善が実現化しないとき、本当の悪である。
◎向上のない現状維持の生物にもそれ以上の向上がない神にもそれ故悪は存在しない。正確には、善悪は単独では存在せず分裂(分割)しないで常に手を結び合っている。悪は分別する人間界にだけ居座る。
[保守的な善と破壊的な悪]
◎ドイツの詩人・小説家ノヴァーリス(1772-1801)は、「善が保守的なものであるように、悪は破壊的なもの」という。
◎保守とは現状維持、現状肯定であり、善は今がここが良いという。それに対して、破壊は現状を拒絶し現状変更(現状否定)を迫る。現状を捨てずに、現状に執着して進歩・向上・成長はない。
[弁証法的展開をしない悪は単なる悪にすぎない]
弁証法的にいえば、正(=一致=善=現状維持)→反(=不一致=悪=破壊=脱構築)→合(=再一致=再構築=善)と展開しない、破壊だけの、下降だけの、向上しない再一致(止揚・再秩序化)へと向かわない悪は本物の悪である。
[善の欠如が悪であるのか]
◎「善の欠如が悪である」とアウグスティヌスはいう。
◎黒を背景にして白があると、白を取り去(欠如す)れば黒が残る。夜空を背景に太陽光が差し込めば、朝になる。太陽光を取り除けばふたたび夜になる。この論理でいけば、「善の欠如が悪」は、悪が背景にあって前景に善がある。とはいえ、アウグスティヌスが言いたいのは矛盾的自己同一である善悪から善を欠如させると悪が残るということだろう。
[礼儀によって社会的秩序の維持を主張する性悪説]
◎人間の「本性は悪」(性悪説)と中国戦国時代の思想家荀子(前298-前238頃)がいう。人の欲望は自然のままに放置すると、社会を破滅させてしまう、ゆえに人の欲望は悪である。これを礼儀によって整えて、社会的秩序を維持せねばならない。人間の本性を利己的欲望とみて、善は習得によってのみ可能とする。
[善を行う道徳本性を先天的にそなえもつという性善説]
性善説は、正統的儒学と中国戦国時代の思想家孟子(前372-前289)がいう。人は生来、善を行う道徳本性を先天的にそなえ持ち、悪の行為はその本性が汚れ損なわれ隠されることから起こる。道徳的本性についた(自我が貯め込んだ)垢・泥を削り取れば、必ず聖人となり、天下国家を平安にする。
[悪の欠如が善だとすれば、悪を取り去れば残るは善ばかり]
性善説は「悪の欠如が善」と考える。性悪説は「善の欠如が悪」と見なす。しかしながら、悪を取り去れば、あるのは善ばかり。アクを抜き去れば、タケノコはおいしいおかずとなる。鯛は小骨を抜いてから食べるに越したことはない。毒を抜き去れば、フグはきわめて珍味なり。悪を抜き去った孔子は思うがままに振る舞ってもなおかつ理にかなう、善行を行う。
[善は全く欠如することがない、悪に目がくらむだけ]
◎善は全く欠如することがない、ただ悪(前景)に目が張りつくだけである。水は清い、どれほど泥が中に含まれていようが、水自体は清い。中にある泥を取り除けば水はまた以前のような清い相を表に出す。鏡は自身にどれほど醜いものを映し出しても、そのものが去れば元のように何も映らないきれいな表を見せる。覆い隠す黒雲の向こう側には一面に青空が広がる。
[修行によって悪を抜き去れば、その人間は自然に善を行じる]
◎修行によって悪(アク・自我・我執)を抜き去れば、その人間は自然に善を行じる。何となれば、その者には善しか残らない、善が全面を覆うのだから。とはいっても、「月に群雲花に風」ではある。群雲がなければ、風がなければ、月の魅力は、花の美しさは半減する。
[反対物があるから存在できる]
◎対立物を持ち出すことによって、良きものはさらに引き立つ。反対物があるからそれぞれは浮き立つ。反対物があるから互いに存在できる。善が存在するためには悪が必要となる。悪が消えるとともに善も姿を消す、鞍馬天狗やスーパーマンのように、裏と表のある貨幣のように。

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