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第十六章 絶対無に憩う悟り [122]道元の悟り、自力の分別を捨てると他力の仏が働く

[122]道元の悟り、自力の分別を捨てると他力の仏が働く
[身心を仏の家に投入すると生死を離れた仏になる]
道元はいう、「いとうことなく、したふことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」と。
[自我機能を止め、身心を放ち忘れる身心脱落]
◎いとう(厭う=嫌がる)、したふ(慕う=好きだと思う)は自我の分別である。はかる(計測量る=思考する)、言葉をいうはともに左脳の機能、これも自我機能といえる。身も心も放ち忘れ(個人的な一切合切を捨て去り)て、仏の家に投げ入れると、身心脱落である。
[自力を捨てると他力の仏が働く]
禅宗は自力といわれるが、道元は他力を仏の働き(仏の方より行われ)として認める。彼は(分別する・計る・言葉を言う・自我機能を働かせる)自力を捨てて(力をも入れず心をも費やさずに従って)他力が働く仏になれという。道元のこの表現は悟りへの道筋をうまく言い表す。
[救う他力を期待する前に自我放棄した全幅の信]
浄土真宗はいう。極悪の衆生であっても弥陀の慈悲によって救われるが、ただ一つの条件として「全幅の信」が求められる。反作用(救う他力)を期待するには先ず作用(自我放棄による全幅の信)からである。
[信は、人間が対立の世界、二元論の深淵を飛び越えた時、初めて得られる]
鈴木大拙はいう、「信は、人間が対立の世界を超越した時、即ち二元論の深淵を飛び越えた時、初めて得られる」と。
◎対立の世界や二元論のように二分・分別するのは自我である。それ故に、「信」を得るとは、自我を捨てて超越(最上階層へ上昇)する。信という作用をした者(衆生)の所にのみ救いという反作用(弥陀の慈悲)が来る。作用しない者はさようなら。
[信は無心・無信(信ずる自力をも捨てる信、信を越えた信)になると得られる]
◎所が、信は無心・無信(信ずる自力をも捨てる信、信を越えた信)になって始めて得られる。多くの人は信じる自力・りきみが強すぎる。時には信に凝り固まって救いをもはね返すほど凝り固まっている人もある。力を抜いてリラックス、リラックス。
[仕事が自己を導いて自発的に仕事をする、万法すすみて自己を修証する]
◎恩田彰はいう、「仕事に集中していると、仕事の自律性が働いて、自分が仕事をしている感覚がなくなり、仕事が自己を導いて自発的に仕事をしている」状態になると。
◎それに対して、道元はいう、「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり」と。
◎仏の心にいる、仏になるには、自分を運ぶ自力(迷い)から万法が進む他力(悟り・仕事の自律性が働いて仕事が自発的に進む)への転換が必要である。
[無意識的思考が続行され、解答が得られると意識へ送り出される]
◎ある事柄について考えるがうまくゆかず行き詰まったときに、別なことをしていると不意にいい考えが生まれたり、解答が得られたりする。ある事柄を思いめぐらすことから離れても、依然として脳内ではその事柄について無意識的思考が続行され、自律的下位機能が働き続け、いい考えが生まれる、解答が得られる。
◎それは自力で出した解答よりも格段に素晴らしいものである。それを意識へ送り出す、電子レンジが指定時間に「チン」と鳴って「出来上がりましたよ」と知らせるように。その時私たちはひらめいたと思う。
[自力を尽くした上での他力]
◎では自力は不要なのだろうか。それに対しては次のことわざが解答してくれている。
◎「人事を尽くして天命を待つ」。
◎「天は自ら助くるものを助く」。
◎「求めよ、さらば与えられん」。
[自力を尽くすと、それを越えたところで他力が自律的に働く]
◎自力を尽くすと、それを越えた所で、越えた時点で他力が自律的に働き出す。人事(自力)を尽くした者だけが天命(他力)を受ける。自分を助ける努力(自力)をした者の所に天の助け(他力)が舞い降りる。求めた(自力)者だけが与えら(他力)れる。
[他力が働くためには自力は捨てねばならない]
道元はいう、「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」と。
◎「一方を証するときは、一方はくらし」と。
◎仏は最高階層であり、覚知するにはさらに上位の階層に昇らなければ行えない。諸仏が諸仏である(同一階層にある)ときには諸仏であると自覚(覚知)できない。
[無我夢中の時には自分は消えている]
◎他力が働く(諸仏である)ためには自力(覚知)は捨てねばならない。自分が無我夢中(諸仏)のときには、自分(諸仏)を忘れ去っている。前頭連合野と後部連合野が一体(一心同体)のときには、自覚の働きが消える。前と後が分離したときに(前頭連合野による)自覚が生まれる。自覚は夢の後である。
[本来の面目とは、他力・天命がありのままに映し出され、自我は消えている]
◎「本来の面目」という題の道元の歌、「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり」。
◎そこには事実・自然(他力・天命)がありのままに映し出され、自力(自我)は消えている。ただ「涼し」という感覚機能は働く。「涼しい」との判断は自我(分別)から来るのであるが、言葉(自我)を使わなければ詩はよめない。
[宇宙は断絶しない(間隙あらずの)循環(道環・リサイクル)]
道元はいう、「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり」と。
◎宇宙は、発心(決意)→修行(行持)→菩提(覚的悟り)→涅槃(解脱的悟り)→発心(振り出しに戻る)のように、断絶しない隙間あらずの循環(リサイクル)である。
[心が空・無心になればそこに智慧が映し出される]
道元の歌、「濁りなき心の水にすむ月は、波もくだけて光とぞなる」。
◎心を澄む=清い=空=涅槃=真如にすると、月が映る。月は智慧を意味し、波は自我の働き(表層意識)を表し、それが砕ける(停止する)と、つまり心が空・無心になればそこに智慧が映し出され、月(智慧)は世界(闇・俗世間)を照らし出す光(流転させる真理)となる。