宇宙原理があなたの中を貫流する

このブクロを通じて宇宙を網羅する基本法則を提示していきたい。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [143]悟り後のジャックは人食い鬼(慢心)を退治して才能を開花させる

[143]悟り後のジャックは人食い鬼(慢心)を退治して才能を開花させる
[悟り体験は地動説(自我中心)から天動説(自己中心)へのコペルニクス的転回]
◎悟り体験をしたからといって、自我が完全永久消滅したわけではなく、依然として存在する。ただ悟り後には自我(特に身体自我)は自己に奉仕する、自己に軸足を置く、悟り前の地動説(宇宙の中心の地球)から、太陽の周りを巡る数ある惑星の一つという天動説へとコペルニクス的転回をする。自我から自己へと軸足を移動させるぶん、普遍性は高くなる。
[意識が上昇するので自我肥大・慢心の心配が生まれる]
◎普遍性(心の拡大)が高くなるだけに自我肥大・慢心の心配が生まれる。慢心はおごり高ぶり思い上がってバベルの塔を建て始める。これに取りつかれた者の言葉は迫力があるので依存心の強い者はそこに引かれて行く、磁石に引かれる鉄粉のように、すべてを飲み込むブラックホールのように。
[自我(地球)が自己(太陽)を同一視するのが慢心]
◎自我(地球)が自己(太陽)を同一視するのが慢心である。高みに登った何人もの宗教者がそのつまずきの石で一気に平地(俗界)にまで転げ落ちた。奈良時代の僧道鏡称徳天皇の寵愛を受け、太政大臣禅師になり、さらに法王位を授けられ、失敗に終わったものの、皇位に就こうとさえした。
[相手と同じような態度を示す同一化(同化)と相手と同じような考えを示す同一視]
◎外部のものを内部に移し入れる(取り入れる)のは、同一化(同化)を通じて行われる。相手の考え・感情・行動・属性を取り入れ、相手と同じような態度を示す。弟子は師匠を、子は親を無意識的に同一化(真似)する。つまり、素直に取り入れてそのままを表現する。
[大きな存在と同じ行為・態度は安心と満足を与える]
◎同一視は、相手が考え・感じ・行為するように自分も同じようにして満足や安定を得る。一致は満足・安定を与える。親子の間で同一視・同一化が行われて成長し、やがて子どもが親に対して疑問を抱くことがきっかけで同一視が崩れ、親子の間に大きな断絶(差異・不一致)が口開く結果となる。
[牝牛と交換した豆は一夜で天まで届く大木になった]
◎「ジャックと豆の木」はイギリスの昔話である。ジャックの家に牝牛がいたが急に乳を出さなくなった。それで彼はその牛を売ろうとしたが、老人にうまくいいくるめられて豆と交換してしまう。その豆は一夜で天までとどく大木となる。
[天上の善人と地上の悪人は同一人物]
◎そうなると、この老人は禅の大家的存在とも見なせる。俗的には詐欺師(地上では悪人)だが、仏教的には超一流の師(一夜で天までとどく大木となる豆を与える善人)である。だから善人か悪人かの見分けは極めて難しい。
[ジャックは豆の木を登り天にまで達し、そこから宝物を持ち帰る]
◎ジャックは大木を登って天上に住む巨人の人食い鬼がいるお城から「金貨の袋」と「金の卵を生むめんどり」と「歌いしゃべる金の竪琴」を奪う。それらを奪って先に地上に降り立ったジャックは斧で木を切り倒して追って来る人食い鬼を退治する。
[巨人は天上では宝物(自己)を守る善人で、地上ではジャックを食らう人食い鬼]
◎ジャックの分身「巨人」(潜在的可能性)は天上(自己世界)に住むが、地上(自我世界)にまで連れて来てはいけない。巨人は天上では宝物を守る善人であるが、地上ではジャックを食らう悪人(人食い鬼・慢心)である。退治しなければ地上ではジャックを食って自我肥大と名前を変えて暴れ出す。天上の巨人でありかつまた人食い鬼はジャックの中の善人(精神・才能)と悪人(肉体・物質的欲望)とも考えられる。
注)鬼子母神。仏教で、鬼子母神は、千人の子があった。鬼子母は、性質邪悪で、常に他人の子どもを殺して食べたため、仏はこれを教化しようと子を隠したので、鬼子母は探し求めるが見つけられず、悲嘆にくれた。そこで仏は、「汝は千人中ただ一子を失うにさえ悲嘆懊悩するのに、汝に子を食われた親達の胸中はいかばかりか」、と説いた後、子を返した。以後鬼子母は、仏に帰依し、産生と保育の神となった。
[下位機能・役割によって違う名前を使う]
◎その都度その都度表面化する下位機能によって違う名前を使う、ある時にはジキル博士であり、またある時にはハイド氏となるように。異なる名前を使うといえば、ツバス→ハマチ→メジロ→ブリと成長につれて呼び名が変わる出世魚がいる、あるいは、豊臣秀吉のように。仏教では人も死ぬと名前を変える(大金をはたくと買える)。水で死ぬと一律「土左衛門」と命名されるが。
[天上に留まるべき人が地上に降りて世間を騒がせる]
キリスト教世界では天界の天使が地上に降りて悪魔と化した、「ジャックと豆の木」の天上の巨人のように。そのような巨人が地上まで降りて来て世間・世界を騒がせたことが何度あったことか。
[豆はジャックの潜在的可能性、天にまで至る宗教的可能性を表す]
◎ジャックは牛と豆とを交換したが、豆はジャックの潜在的可能性を、特に宗教的方面における可能性(天にまで至る能力)を表すのだと解せる。天を目指すきっかけは牛が乳を出さなくなった物質的欠乏(挫折)である。さらに老人の巧みさによって牛を手放すという現実への執着心のなさも手伝って、ジャックは自我から解放されて自己に至った(天上に昇り立った、しかも一夜にして)と考えられる。
[卵・豆・種は潜在的可能性を意味する]
◎卵(動物)も豆・種(植物)と同様に、これから成長して行く潜在的可能性を意味し、しかも卵そのものを持ち出したのではなく、その卵を生む源であるニワトリを持ち帰って来た。ジャックはこれから先数々の素晴らしい(金の)潜在的可能性の実現目指してまい進するだろう。
[芸術的才能も磨けば自律的芸術産出機能となる]
◎ニワトリと一緒に持ち帰った竪琴は芸術的才能を象徴する。彼がそれを自ら弾くのではなく、竪琴自身が自然に歌いしゃべるという、つまり下位機能が自律的に芸術産出を行う。ゲーテモーツァルトの芸術的才能は彼らが意識して生み出すのではなく、芸術的才能(下位機能)自身が自我とは無関係に自律的に作品を生み出すまでに機能が自動化していた。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [142]老爺は苦難の末に舌切り雀(自己)を探し出す

[142]老爺は苦難の末に舌切り雀(自己)を探し出す
[怒って雀の舌を切って追い出す老婆と心配し行方を尋ねる老爺]
◎「舌切り雀」は古くからある昔話である。老婆が作った糊をスズメになめられたので、彼女は怒ってスズメの舌を切って追い出す。心配した老爺がスズメの宿を探しに出かけ、途中馬飼いや牛飼いに行方を尋ねると馬や牛の小便を飲んだら教えてやると言われその通りにする。その結果やっとスズメの宿を探し当て、訪問する。
[歓待され軽いつづらをもらう老爺とすげなく接待され重いつづらをもらう老婆]
◎老爺はスズメから歓待され、帰り際につづらをやると言われ、宝の入った軽い方のつづらをもらって帰る。それをうらやんだ老婆がまねをしてスズメの宿までたどり着くが、スズメはすげなくもてなす。老婆は帰り際に欲張って重い方のつづらをもらうが、途中で開けてみると中からヘビ・化け物などが出て来る。
[言葉を使う世界を越えた悟りの境地に舌切り雀は住む]
◎「舌切り雀」は悟りへの旅路を暗示する。スズメの「舌が切られる」によって、言葉を使う爺さん婆さんの住む(自我)世界を越えた領域(悟りの境地)にスズメ(自己・導師・魂・仏)が住むことを暗に示す。
[自己探求のきっかけは、物質的欠乏、困苦するものへの愛情表現としての援助]
◎自己を探し求める(探求する)きっかけは、物質的欠乏(貧困)、ここでは糊をなめられてなくなるという状況設定である。もう一つのきっかけは「助ける」である。困る・苦しむものへの愛情表現として助ける、浦島太郎が亀を助けたように。老婆の方は怒り(憎しみ)を向けたが、老爺の方は心配(愛情)を向けた。
[自己探求の途中では苦難・困難が待ち受ける]
◎自己探求の途中では必ずといっていいほど苦難・困難が待ち受ける。「舌切り雀」では老爺が「馬や牛の小便を飲んだら教えてやる」との難題を吹っかけられる。それを受容することによって乗り越え、解決へと結びついた。
[スズメからもらったつづらは老爺老婆の心の中身]
◎スズメからもらったつづら(藤づる・竹・ヒノキの薄板などを編んで作ったかご)は彼らの心である。老爺のつづらには宝が入っていた(宝によって輝かしい自己を言い表す)が、老婆のつづらには心の下層(異界)に住む住人(ヘビや化け物)であった。老爺はつづらを目的地(天国・自己世界)まで運び切ったが、老婆には途中で開けるこらえ性のなさもある。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [141]いじめ・虐待から耐えて乗り越えるシンデレラに王子が来迎する

[141]いじめ・虐待から耐えて乗り越えるシンデレラに王子が来迎する
[妖精の助けで美しい衣服をつけて宮中の舞踏会に行き、王子に見初められる]
◎シンデレラは、継母・義理姉妹に虐待されるが、妖精の助けで美しい衣服とガラスの靴をつけて宮中の舞踏会に行き、王子に見初められて一緒に踊る。王子は、帰りぎわに慌てたためにガラスの靴を忘れたシンデレラを捜し出して結婚する。継母は実の我が子を妃にしようとして失敗する。
[いじめ・虐待・貧困・物質的欠乏に耐えて乗り越えると「妖精の助け」が得られる]
◎王子をシンデレラにとって「自己」と見れば、この物語はそれ(彼・自己)を見出すためのシンデレラの人生の旅と読める。「自己」を求める旅ではよくあることだが、いじめ・虐待・貧困・物質的欠乏・難題というハードルが待ちかまえている。それに耐えて乗り越えることで「妖精の助け」(他力)が得られるほど精神的成長をとげる。
[自力による成長をとげると、偉大な他力が働き始める・来迎する]
◎とはいえ、シンデレラはいまだ時間に縛られる(12時になると帰らなければならない)が、そこまで自力による精神的成長がとげられると、偉大な他力(王子・自己)が働き始める(迎えに来る・来迎する)。
[心が浄化した者だけが他力を受けられる]
◎義理姉妹のようにその他力・王子に見合う(ガラスの靴のサイズに合う)だけ心が成長・浄化(透明なガラスの靴によって象徴される)していない者はそれを受けられない。心が成長した分だけ他力は働く、作用をすれば反作用が返って来る。因果応報である。
[鉢は姫に苦しみを与えた]
◎日本版シンデレラ物語は「鉢かづき」である。母の死(依存が断ち切られ自律に向かう転機)に際し(自我を覆い隠す)鉢をかぶせられた姫が継母に虐待されて家出する(追い出される)が、結局山蔭三位中将の息子宰相殿に見初められ難題を乗り越えて結ばれる。
[鉢からの解放が幸福を授ける]
◎二人が結ばれる前に、宰相殿の母に反対され、両人とも家出をしようとしたとき姫の頭上の鉢が取れて、中から宝物がこぼれ出て、さらに姫がとても美人だと知れる。さらに才色兼備でもあり、そのことによって幸福を得る。
◎鉢(自我)は姫にさまざまな苦しみを与えたが、鉢が取れたこと(自我からの解放)によって自己が露わとなりそれが幸福をもたらした。
[いじめられる姉は山姥に宝物をもらう]
◎「米福粟福」もシンデレラ型の継子話である。姉の米福は継母にとって継子、妹の粟福は継母の実子。継母は継子米福に水くみ、糸紡ぎ、麦つきなどつらいきつい仕事ばかりをさせる。ある時姉(米福)は破れた袋をもたされてクリ拾いに行くが、山姥(山奥に住む老女の妖怪・妖精の怖い版)に宝物をもらう。日本では善と悪の見分けがつきにくい。自我を滅する努力をする者には他力(山姥)が働き始める。こぶとり爺さんの鬼のように、自我を滅する者には善を、自我むき出しの者には悪をもたらす。そういう意味では、西洋のトリックスターに似ている。
[長者に見染められる]
◎祭の日、母は妹(実子)をつれて見物に行き、残された姉は山姥にもらった宝の着物を着て外出し、長者に見染められる。母と妹はそれをうらやみ妹を臼にのせて嫁入りのまね(心のこもらない真似ごと)をするが、田に落ちて二人ともタニシ(心の成長度の比喩的表現)になる。
[型をなぞるだけの誠がこもらないシンデレラの義理の妹たち]
◎シンデレラの義理の妹たちや粟福(義理の妹)は形式・型をなぞるだけの実質・中身・真心・誠がこもらない態度がシンデレラ・米福との比較として示される。この心ある者となき者とを比較する昔話・民話は多い。誠(誠心誠意)の必要性を語りかける。
[肉体的・精神的苦しさに耐えることによって高い(上位)階層に昇る]
◎現状維持を阻止する肉体的・精神的苦しさに耐えることによって、(もちろんそれによってつぶれる者も多いが)高い(上位)階層に上がる、森のサルが平原のヒトになったように。
◎甘やかされた(肉体的・精神的に鍛えられていない)者は結局は苦しみを受けたり、失敗者に終わる、シンデレラの義理の妹たちや粟福(義理の妹)のように。苦難はそれを乗り越えた者を心の強い立派な人に育て上げる。それなのに子どもに成長をもたらす苦労をせっせせっせと摘み取る罪な親ばかも多い。
[才能・能力の秀でたもの、見劣りするものは排除されがち]
◎自分に合わないもの(不一致・差異)に出合うと、緊張・イライラ(一様化・同化への圧力)が生じる。不一致が自分の内部だろうと、自分の外部で起こることだろうと、この「一様化への圧力」が自分たちと違うものを排除する、差別する、いじめることとして現れる。才能・能力の秀でた者、見劣りする者は排除されがちである。
[抑制機能を持つ前頭連合野を育て上げることで差別・いじめを大幅に緩和できる]
◎この「一様化への圧力」は仕方ないとあきらめざるを得ないのだろうか。抑制機能を持つ前頭連合野を育て上げることで圧力を大幅に緩和できる。とはいっても、圧力自体がなくなるわけではない、矛盾的自己同一(一様化対多様化)なのだから。それによって起こる緊張に耐えられる、それらを抑える、それらをともに抱え込む能力がそこから大きく育つ。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [140]無心と不動心のこぶ取り爺さんは影(異界)と出会い和解・同化する

[140]無心と不動心のこぶ取り爺さんは影(異界)と出会い和解・同化する
[夢中で鬼と一緒に踊ったこぶ取り爺さん]
◎私のように腹に脂肪のある小太り爺さんではなく、頬にこぶのあるこぶ取り爺さんが洞穴で雨宿りをして鬼の酒盛りに出合う。お爺さんはおはやしの調子にのせられて何もかも忘れて夢中で鬼と一緒に踊った。その踊りがやけにうまいので喜んだ鬼に明日も来るようにとこぶを取られる。
[怖さに体が震えた隣の欲深爺さん]
◎次の日にその話を聞いたやはりこぶのある隣の欲深爺さんが洞穴へ行ってまねをするも、あまりの怖さに体が震えて踊りが見苦しいほどへたであった。それにイラだった鬼からこぶを二つにされて追い出される。
[異界の鬼と同化することで利益が得られる]
◎異界は、疎遠な不気味な世界で、そこには河童・天邪鬼などの亡霊・鬼などが住む。こぶ取り爺さんがしたように、異界の鬼(実は自分の影で意識から見ればかなり下位階層の機能)に対して恐れの感情を抱くこともなく、無心に同化(結合・取り入れ)することで利益が得られる。
[自分の中にある動物(的本能)が働くことを恐れる恐怖の感情]
◎しかし人(自我)は自分の中にある動物(的本能)が働き出すことを恐れる、特に知性・理性の勝った人は。それが美人の鶴でしかも高価な織物を織ってくれるならば話は別だが。動物を飼い慣らすことは人の努めである。
[同化(結合・取り入れ)できない異界の鬼が働き出すと災難を受ける]
◎異界の鬼が働き出すと、おそらく利益どころか災難を引き受ける。アメリカ映画は異界の鬼(エイリアン・サメ・キングコング・ジェラシックパークの恐竜・ヒッチコックの鳥など)と闘うテーマが多い。欧米では同化する(協同原理)よりも闘う(競争原理)ことを選ぶようだ。
[童話の世界は異界の鬼でにぎやか]
◎たまには「E.T.」のような取り上げ方もあるが、それとても仲良しになれたのは、子どもたちだけだった。大人は自我むき出しの態度を見せたのに対して。童話の世界は異界の鬼(クマ、キツネ、ライオンなどなど)と友だちになる筋書きが多い。子どもたちに童話の読み聞かせを心がけましょう。
[こぶを取るとはこぶ取り爺さんにとって悟りの証明書]
こぶ取り爺さんに話を戻す。こぶは取り去らねばならない自我を示す。私はスネに四つもこぶがある。四つともいまだにぶら下がっている。私も踊りの練習をした方がよいのだろうか。
◎こぶを取るとはこぶ取り爺さんにとって悟りの証明書である。そうなれば、その鬼はこぶ取り爺さんに悟りの認可を与えた禅の師家ともいえる。
[無心の行動は自然で滑らかな動きになるが、意識した行動は不自然でぎこちない]
◎恐怖を感じるもの(鬼)に対して、おじけづくこともなく、無心(無我夢中)で不動心で自然体で接するのは禅的には相当に修行が積まれている。無心の行動は自然で滑らかな動きになるが、意識した行動は不自然でぎこちない。
◎そのぎこちなさに対する評価として、欲深爺さんはほほにあったこぶに隣の爺さんのこぶまでつけられる。こんなこぶが増えてもよろこぶわけにはいくまい。

バカ昔ばなし

バカ昔ばなし

  • (声)温水 洋一
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第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [139]自我の執着を持たない貧しさは人を天国に案内する

[139]自我の執着を持たない貧しさは人を天国に案内する
[雪中に立つ地蔵を気の毒に思い、頭の雪を払い売物の笠をかぶせる]
◎私の子どもたちが幼い頃、日本昔話が放送され、子どもたちと一緒にテレビの前に座って私も妻もよくそれを見た。今その日本昔話が再開されている、とても喜ばしいことである。その中に「笠地蔵」の話もある。
◎お爺さんは大晦日に笠を売りに行くが全く売れない。その帰り道雪中に立つ地蔵たちを気の毒に思い、頭の雪を払い売物の笠をかぶせるが、まだ足りないので自分の笠まで脱いでかぶせてやる。お爺さんとお婆さんはおかゆを食べて床に着いた。
◎その夜吹雪の中を地蔵たちが米やお金や薪を持って来て家の前に積み上げて置いて行く。地蔵があたかもクリスマスに大きな白い袋を担いだサンタクロースのようでほほえましい。
[貧しさは自我の執着のなさを示す]
新約聖書に、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」とある。
◎貧しさは「自我の執着のなさ」を暗示する。といっても、現実世界で物質的に貧しい人々が自我の執着に乏しいということでは決してない。洋の東西を問わず、自我の消滅が天国(浄土)を招き入れる。
[天国へは自我を消滅させた者だけが入れる]
◎貧しいから自我の執着がないのではなく、自我の執着がない故に貧しい。晴れ晴れとした貧しさである、わびさび的な。新約聖書の「心の貧しい」は「自我への執着心が乏しい」と解すべきだろう。天の国は自我を消滅させた者だけが入れる狭き門を持つ王国である。それを生きながらに実現させたら、悟りと呼ぶ。逆に死んでも自我を捨て切れなければ、幽霊としてこの世に留まる。強い無念残念の気持ちが死者を幽霊にしてしまう。
[自我の放棄・あきらめや自我の執着の乏しさ]
◎笠地蔵とかマッチ売りの少女のように、売りに行くが全く売れないのは、自我の努力が無効(報われない)だった、それによる自我の放棄(あきらめ)を暗示する。「ジャックと豆の木」のようにウシと豆との交換、「猿蟹合戦」のように握り飯と柿の種との交換のような価値の低いものとの交換も自我の執着の乏しさを暗示する。
[豆や種は、今すぐではないが未来での豊かな実りを暗示]
◎豆(これも種ではあるが)や種は、今すぐではないが未来(時間をかけての努力をした後)での豊かな実りを暗示させる。これは先見の明(今すぐの小さな価値ではなく未来での大きな価値を選び取る能力)があることをも示す。物質(ウシや握り飯)よりも能力面での潜在的可能性(豆や種)を選び取ったことも意味する。
[遙かかなたの高みにいる笠地蔵のお爺さんとお婆さん]
◎笠地蔵のお爺さんは手をすり足をすり拝みたいほどの暖かみ、温もりを感じる好々爺である、それと忘れてはならないのは彼に異を唱えなかった心暖かいお婆さん。物語に登場する老婆はたいてい意地悪、どん欲、口汚くののしる心の醜悪である。彼ら両人とも遙かかなたの高みにいる、雛壇の最高位に据えたい人柄である。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [138]魂を象徴する天女・白鳥・かぐや姫は人間(肉体)を去ることで昇天する

[138]魂を象徴する天女・白鳥・かぐや姫は人間(肉体)を去ることで昇天する
[霊魂は空を飛ぶ]
ユングはいう。バビロニアでは、霊魂が行くよみの国(死後世界)では霊魂が羽衣を着る。古代エジプトでは、霊魂を鳥と見なす。古代ギリシアでは天まで飛行できる翼を持つ馬ペガサスが住む。
◎霊はどちらかといえば神の働きを示し、キリスト教ではそれを明示するために聖霊と呼ぶ。魂は個人内にあって肉体と精神とを仲介する心の働きをするものと見なされる。
[羽衣は天上を飛行する力を持つ]
◎羽衣伝説(天人女房)は語る。天女が地上で水浴び中に、木にかけておいた(天人が着る天上を飛行する力を持つ)羽衣を男に隠されてやむなく妻となる。やがて家の天井に隠されていた羽衣を取り返して天に昇る。
[衣を取り返し、元の姿に戻って飛び去る]
◎白鳥処女説話はいう。天上の少女が白鳥(ツル)になって(逆に白鳥が少女になって)地上に降り、水浴中に男に衣を奪われて妻にされる。やがて衣を取り返し、元の姿に戻って飛び去る。バレエ「白鳥の湖」はこの話を題材にする。羽衣伝説(天人女房)は白鳥処女説話と同じ源から流れ出ている。
[天が大地に降りて来るとき、人間はその手に触れることが出来る]
鈴木大拙はいう。「天が大地に降りて来るとき、人間はその手に触れることが出来る。天の暖かさを人間が知るのは事実その手に触れてからである」と。
◎白鳥が天女が地上に降り立って人間と交わる機会を与えたことが、人間の心の中に天へのあこがれを生じさせ、天とはどのようなものかについて直に知るチャンスとなった、白鳥には天女には申し訳ないことなのだけれども。
[現象界に落ちた魂は故郷のイデアを恋い慕う]
プラトンはいう、現象界(物質世界)に落ちた魂は故郷のイデア(理念)を恋い慕うと。人間は魂と身体とから成る。魂は感覚器官を通じて生成消滅の世界(物質世界)と関わる。魂がイデア界の智を獲得(直観)できるのは、魂を感覚器官と切り離して魂が魂自体だけになるときである。魂と身体が切り離されるのを自我は死と呼び、魂と身体との融合を生と呼ぶ。しかし魂自体は生きっぱなし(不生不滅)である。
[天女・鶴・かぐや姫は共に暮らした人間(肉体)から分かれることによって天に帰る]
◎魂は地上に落ちて肉体に入り、魂と肉体とは結合する、白鳥が天女が人間と結ばれたように。浄化は、魂の墓場(肉体・人間)から分離して純粋になってゆく。プラトン的にいえば、天女・鶴・かぐや姫は魂で、人間が肉体である。彼らはいったん一緒に暮らした人間(肉体)から分かれること(浄化)によって天に帰ってゆく。成仏・涅槃・悟りは肉体との分離であるが、肉体的死を必ずしも必要としない。肉体を持ったままの死を悟り(即身成仏)という。逆に肉体的死をこうむっても死なない者を幽霊と呼ぶ。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [136]月世界を目指す内向的かぐや姫と出世を求める外向的桃太郎

[136]月世界を目指す内向的かぐや姫と出世を求める外向的桃太郎
[竹取物語は、地球(自我世界)から月(自己の世界)への帰還説話]
竹取物語は、(地球)自我世界から(月)自己世界へ帰還する物語である。かぐや姫は竹の中から誕生し、竹取の老夫婦に養われる。3か月の速さで美しい姫に成長する。貴公子たちによる求愛に対しては、「雷を持って来て」、「三千年に一度咲く花を取って来て」、「打たずに鳴る鼓を持って来て」と難題を言い掛けて退け、帝の結婚の申し込みでさえも拒む。
[公案を通過できずに美しい女性(自己)を手に入れられない男性(自我)]
◎彼女の出す難題は禅宗(特に臨済宗)の公案に似る。貴公子たちは公案を通過できずに美しい女性(自己)を手に入れられず、かぐや姫は八月十五夜に月の都から遣わされた使者(来迎者)たちに伴われて昇天(往生)する。このような、男性(自我)がいったん手に入れた美しい女性(自己)を男性の失策によって天へと去らせてしまう物語はいくつもある。
[重層的多元的視点を持つ竹取物語]
◎この物語(他の物語もそうであるが)は重層的多元的視点を取る。貴公子の視点から見れば、かぐや姫はこの物質世界ではどうしても手に入らない「本来の自己」で精神世界に住む。しかし姫を物質世界に住むとも解釈でき、その場合かぐや姫は手に取ることができない単なる「高嶺の花」である。
[自我の未成熟で肥大した空想好きな我がまま娘]
かぐや姫自身の視点では、姫が自我成熟への途上と見れば、甘やかされ過ぎて社会性が身につかない自我肥大に陥った、家・自分に閉じこもりがちな空想好きですぐに別世界へ向けて夢想する女の子である。
[自分の脱皮を希求し精神世界を目指す]
◎そうではなく、自我成熟した後で自我を脱皮する途上だと見れば、この世のどのような(物質的精神的な)ものにも目を向けない、執着をすべて振り払って本来の自己への帰還を目指す女性である。
[外向的タイプに属す桃太郎・金太郎と内向的タイプの典型のかぐや姫]
かぐや姫と同じくらいよく知られた桃太郎は金太郎と同様にユングのいう(外的な事物や人物へ強く関心を向け、また外界から影響もたいへん受けやすい)外向開放的タイプに属すが、かぐや姫の方は(内面に向かう閉鎖的)内向的タイプの典型である。
◎そのようなタイプと関連する体型と気質には三種類(内胚葉型-内蔵優位型-肥満型-外向性-そううつ気質、中胚葉型-筋肉優位型-がっちり型-粘着気質と、外胚葉型-頭脳優位型-やせ型-内向性-分裂気質)がある。
[愛情が精神の成長をもたらす]
◎竹というきわめて固い殻(社会への拒絶を暗示)にこもっていたかぐや姫は、冷えた体に暖炉の火が暖かさを注ぐように、愛情(暖かく包む思いやりにくるまれること)によって短期間で精神的成長を遂げる。
[柔らかい桃の皮ならば社会的適応はたやすい]
◎柔らかい桃の皮ならば、桃太郎のように社会的適応はたやすかったかもしれない。竹藪は薄暗いが、桃は春に花が咲き初夏に実をつけるから、明るい日差し、太陽をいっぱい浴びた果物といえる。しかも花も実も明るさを強調する。
[自我が順調に成熟した桃太郎と自我の超越に向けて悪戦苦闘したかぐや姫]
◎桃太郎はきびだんごを持ち、道中で犬・猿・キジを家来に鬼ヶ島で鬼を退治し家を裕福にする。このように桃太郎は自我が順調に成熟し大勢の仲間を伴って社会的出世を果たした。他方、かぐや姫は世俗的価値を拒絶して孤高の中で自我の超越に向けて悪戦苦闘した。
[脳幹・大脳辺縁系が高度に発達した桃太郎と大脳新皮質の機能を表す犬・猿・キジ]
◎桃太郎の話は脳の構造からも説明可能である。桃太郎は脳幹・大脳辺縁系が高度に発達した体格のよい力士タイプであり、犬・猿・キジは大脳新皮質の機能を表す。これら三匹(厳密には二匹と一羽)を伴うことによって脳のすべての機能が全開できた。西遊記でも、三蔵法師孫悟空(サル)・猪八戒(イノシシ)・沙悟浄(カッパ)がお供する。
◎本来的には人間も犬やウサギなみの嗅覚能力を持つ。能力は退化したのではなくただ眠るだけで、訓練次第で犬なみになれる嗅覚システムを持つ。供を連れた桃太郎は脳的にはすべての機能が満開したことを意味する。
[お爺さんお婆さんを喜ばせた桃太郎と、逆に悲しませたかぐや姫]
◎鬼退治によってお爺さんお婆さんを喜ばせた桃太郎と、去り行くことで逆に悲しませたかぐや姫。親・養父母・祖父母を悲しませることなしに月の世界にはいけないのだろうか。まだまだ外的世界での出世が親を喜ばせる。仏教は内的世界での出世(現実世界の超出)を本物の出世だというのだが。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話 [135]知能とは無関係な自走する下位機能(問題解決装置)

[135]知能とは無関係な自走する下位機能(問題解決装置)
[全体の状況を把握し直す・見通すことにより突然課題を解決する洞察]
◎時に突然思いがけず課題を解決したり名案が浮かぶ、ニュートンがリンゴの落下から万有引力を発見したように。突然わきあがる直観的創造的なひらめきである洞察(インスピレーション)は、新しい事態に直面したとき、単に過去の同じ経験を当てはめることによってではなく、課題と過去の経験を関連させて全体の状況を把握し直す・見通すことにより突然課題を解決する、少なくとも解決への手がかりを見つけ出す。
[課題解決には行動停止して内向・内省・思考が必要]
◎これは行動の一時停止(前頭連合野による行動抑制)を含む模擬実験・思考実験・下位機能による課題解決である。ニワトリなどのレベルでは、今取っている行動が有効でないと分かっても、それ(外向的態度)を一時停止して新しい方法を模索する(内省する)という次の段階(内向・内省)を踏むことができない。故に無駄なあがきを繰り返す。
[意識下の下位機能は自律的に働く]
◎思考・内省は意識上での模索であるが、ゲーテは時に詩句が急激に流れ出てきて、ペンを持つ手が言葉の噴出に追いつけないほどになる。またモーツァルトは、旅行中、食後、眠られない夜などに音楽が初めから終わりまで完全な形で耳元に響きわたる。
[意識上の思考と意識下での自律的創作活動とがある]
◎これは心の中で白雪姫のこびとたちが働く、ジャックの竪琴が独りでに音楽を奏でるからである。意識(左脳)による思考・内省と意識下(右脳・無意識内)での自動的自律的創作活動とがある。
[知能とは無関係に下位機能は脳内に育て上げられる]
◎下位機能(自我よりも能力がはるかに上だから上位機能と呼ぶべきだろう)は自律的に働く。それは知識・情報・技能を充分に与えてスイッチを入れれば、自律的に解決に向けて動き出す、全自動洗たく機のような自動問題解決装置、データを放り込んでやれば自動的にプログラムに従って結果をはじき出すコンピュータのように。
◎これは知能(意識による知的作業)とは無関係で、大幅に学力不振に陥った自閉症者や知的障害者であろうともそのような機能を脳内に育て上げる。知識・情報・技能をふんだんに与えれば。

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話  [134]こびとたちと暮らす白雪姫に死と再生を執り行う通過儀礼

第十八章 精神・魂に語りかける民話・昔話
[134]こびとたちと暮らす白雪姫に死と再生を執り行う通過儀礼
[毒リンゴで殺された白雪姫は通りかかった王子によってよみがえる]
グリム童話に「白雪姫」がのっている。雪のように白くて美しい姫は,彼女の美しさをねたんで殺そうとする継母の王妃から危うく逃れ、森の山小屋に住む七人のこびとによって守られる。が、執拗に繰り返されついには毒リンゴによって殺される。その遺体はガラス棺に寝かされるが、そこに王子が通りかかって姫をよみがえらせ妃にする。
[森(無意識)に住む七人のこびたちは下位人格(家事をこなす機能)を表す]
◎白雪姫は森の中にある七人のこびとたちの家に来た。こびとたちは彼女にいう、「僕たちの家の世話をして、料理をつくり、ベッドをなおし、洗濯をし、縫い物をし、編み物をしてくれるならば、僕たちの家にいてもいいよ。何一つ不自由をさせないから」と。
◎森(無意識)に住む七人のこびたちは白雪姫の下位人格(特に家事をこなす機能)を表す。白雪姫が料理・洗濯・裁縫などの技能(こびと)を自分のうち(無意識内)に育ててゆくことをそのような形で言い表す。
[娘として死に、家事機能を確立した大人の女性としてよみがえる通過儀礼]
◎毒リンゴで殺されるとは、通過儀礼である。娘として死に、下位人格(家事機能)を持つ大人の女性としてよみがえる、娘人格が表舞台から背後(下位階層・無意識)に退き、大人の女性が新たに前景(意識)に現れる。娘人格の上位に成人女性が重層する。
◎脳の機能でいえば、意識上で修行した家事機能が自律的(不自由をさせない)機能として無意識下に降って新たな人格(女性)が意識上に浮上する。その新たな人格を目覚めさせる、潜在的可能性(よみの国)の中から呼びかけるのは異性(王子)である。
[通過儀礼を執り行う制度の不在が大人に成り切れない境界線上人格を生む]
◎最近は通過儀礼を執り行う存在がいないせいか、そういう制度が機能しなくなった結果なのか、大人の女性・男性に成り切れなくて、バラサイト・シングル(親に大きく依存した独身者)という境界線上人格が横行する。これはこれでいずれ新しい階層(専門家に対して自由往来者・非特殊者)を形成するのだろうが。
[通過儀礼は退路・逆戻りを断ち切って新しい地位への移行を強制する]
通過儀礼は退路・逆戻りを断ち切って新しい地位(役割)への移行・転換を強制する。最近の親は毒リンゴで娘・息子(人格)を殺してしまう(無意識領域に追い落とす)ほど厳格な態度を取らなくなり、娘・息子人格はいつまでたっても表舞台から立ち去らない。今は友だち親子が当たり前という風潮である。私もその一人ではあるが。
[人生における一つの段階から次の段階へ移る重要な節目に行なう通過・加入儀礼]
◎「通過儀礼・加入儀礼」はフランスの民俗学者ファン・ヘネップ(1873-1957)が提示した。人生における一つの段階から次の段階へ移る重要な節目に行われる儀礼を示す。誕生祝に始まり、宮参り、七五三、成年式、結婚式、葬式に至る家庭生活を中心とする儀礼、入学式・卒業式・入社式など社会生活に関する儀礼。それによって社会的・組織内地位の変更が達成されるが、時には肉体的・精神的試練を伴う。ある意味で入学試験・入社試験もそれに含まれるだろう。
[未練・残念・執着の感情があるので、分離・移行には思い切った変化・後押しが必要]
◎死と再生=破壊と創造は、ある段階から次の段階への通過である。通過儀礼は今まで馴染んだ場所から分離し、新しい場所へと移行する。しかしながら、人には未練・残念・執着の感情と惰性的習慣行動があるので、それらを振り切る分離・移行にはかなり思い切った変化・後押し・精神的ショックが必要である。
[精神的再生は階層構造的積み上げ]
◎肉体的再生はイモリのようにもとの構造・機能を取り戻す恒常性維持だが、上昇力を持つ精神的再生はある構造・機能を下位システムとして自分内の下部組織に組み込み、その上に新しい機能を立ち上げる。階層構造的積み上げである。
[死は、独立する意識が肉体(現実世界)から分離して、完全に無意識に融合する]
◎死は、無意識から分離・独立する意識が肉体(現実世界)から分離して、完全に無意識内に再融合する。再生は、意識が肉体(現実世界)と(再)結合する。意識の(肉体との)死・分離に対する恐怖は自我による独立維持本能から来る。故に、自我は相手に完全に取り込まれてしまう・呑み込まれることを恐れる、どんな意味においても。
[意識は止揚して肉体が下の階層構造を形成する]
◎精神的「死と再生」は、弁証法の正反合の三段階を通過する。最初の正の段階は、意識と肉体が未分化な混沌(意識=肉体の楽園)の状態である。次の反は、遠心分離器にかけるように、意識が肉体から分離する。これを浄化と呼ぶ。泥を含む水において泥を沈下させ、上澄みと分離する。ジュウサーで果汁と搾りカスとを分離する。意識は肉体よりも軽いので止揚して肉体が下位階層を形成する。
[恥は意識と肉体との間に分離が生じた証し]
◎肉体を恥る気持ちは意識が肉体と分離し始めた兆しである。恥は何らかの点で差異・分離(劣位)を感じたことを警告する。アダムとイブは知恵の木の実を食べたがために羞恥心が生まれ裸の身体をかくした。これは身体的なもの(身体的原因)が意識(精神)を動かしているという逆転(肉体上位の精神下位・身唱心随)現象である。
[三段目は肉体と和解・再統合を果たす]
◎意識が上に位置してから、さらに肉体と和解・再統合を果たす楽園への復帰(心唱身随)が望まれる。キリストはユダヤ教の行動(身体)を束縛する律法(規範)、律法優位を批判して、律法の上に愛(心・意識)を置いた。
[一人の人間の中にはさまざまな下位人格が潜む]
◎一人の人間の中にはさまざまなこびと(下位人格)が潜む。一人の結婚した60歳代の男性は、妻に対しては「夫」であり、子どもたちに対しては「父親」であり、親戚に対しては「叔父」「甥」、兄弟姉妹にとっては「兄」「弟」であり、会社にあって部下にとっては「上司」であり、上司からすれば「部下」であり、店に行けば「客」という、社会に向けたさまざまな人格(ペルソナ)を自分の中に潜ませる。
◎社会生活を円滑に運ぼうとすれば、そのような外交・外向性格(ペルソナ)を豊かに育てなければならない。とはいえ、外交性格だけであれば、心の座敷わらしは餓死をする。
[文化の中にある下位文化が文化を豊かで多彩にする]
◎一人の人間の中に下位人格があるように、一つの文化の中にも下位文化がある。文化全体の中で、地域・宗教・職業・性・年齢・趣味などを基準にして下位文化が生まれ細分化・複雑化が進む。そのことによって文化が豊かで多彩になる。

学び その死と再生

学び その死と再生

  • 作者:佐藤学
  • 太郎次郎社エディタス
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第十七章 自然原理を反映する歴史 [133]荒れる若者たち、迷える中年、認知症する老人

[133]荒れる若者たち、迷える中年、認知症する老人
[認知症老人・迷える中年・荒れる若者たちも上昇気流に乗り損なったグライダー]
認知症する老人も迷える中年も荒れる(こもる)若者たちも、上昇気流(目標)に乗り損なって失速する(自力操行できない)グライダーである。
◎今の日本には老人に働く場(単に職場だけを意味するのではない)がない、それまでは家庭内に座席(しかも特等席)が用意されていたのに。居場所をなくして日だまりで震える老人たちは、それに耐えるため脳を衰えさせるしか道はないのだろう。
[地方では国政に見切りをつけた士が立ち上がる]
◎地方では状況はまだましで、都会よりも認知症老人が少ないらしい。若者が去った村は老人たちが主役・現役で活躍する。若者がいないことを幸いに、地方に老人(婦人)文化を築き、優秀な人材が育ち、国政に見切りをつけた国を思う士が立ち上がる。
[一様化の後には多様化が付き添って来る]
◎しかし、そうであってもやはり政治の貧困(未来を指し示すのが政治家の中心的役目である)である。一様(集団)化した上での多様(個性)化は必然の流れである。一様化(都市集中・全体優先)の成功によって日本の名前を世界にとどろかせたが、次に来る多様化(地方分散・個性優先)への道筋を読めないでいる。単にお金をばらまくだけでは文化は芽を出さない。
[非行・反社会的行為を行う者の自由を妨げるのは彼らの心にある鎧・壁]
◎非行・反社会的行為を行う者は、社会が自分の行動の邪魔をする、自分の自由を妨げると思う。だから、社会に対してこれ見よがしに抗議行為を繰り返す。実をいえば、彼らの行動の邪魔をし、自由を妨げるのは彼らの心にある(エネルギーの流れをはばむ)鎧・壁・下位機能(親・社会との関わりで形成した機能・コンプレックス)である。
[成長とは壁を取り壊してゆくこと]
◎我々には幾重にも壁が張り巡らされている。どの壁(ニッチ・生態的地位)の内で生きているかによってその人を知ることができる。霊性の開花は、ベルリンの壁が崩壊したように、この壁をひとつひとつ突き崩す。壁とは、自分の視野を狭めている視界を遮る抽象的壁のことである。壁を壊すごとに、統合力が増し、霊性度(霊性能力)が高まる。
[暖かい愛情が壁を打ち砕く]
かぐや姫は老爺老婆によって壁(竹)から取り出され、桃太郎は桃から取り出され、瓜子姫は瓜から取り出され、孫悟空は岩から救い出された。壁から救い出すのは、老爺老婆・父母・家族・指導者の暖かい愛情である。しかしその暖かい愛情あふれる家庭もいずれ突き破るべき固い壁と化す。
[内面的に実行すべきを外的世界で行う行動化]
◎最近その壁を壊すことと両親殺害とを勘違いする事件が多発する。内面的に実行すべきことを外的世界で行う行動化が目立つ。彼らには自己表現の機会と訓練が不足する。学校で自らの内面を知る機会を作って欲しいものである。
[打ち破るべき鎧に気づくためにはかなり深い内省が必要]
◎打ち破るべきはその鎧(壁)なのだが、それに気づくためにはかなり深い内省が必要である。内省といえば、孫悟空はいたる所で暴れまわった揚げ句、釈迦如来によって五行山の岩に閉じこめられ、500年後に通りかかった玄奘法師に救い出されるまで母の胎内(岩)に籠もらされる(鎖国する)。内省とは意識(上位階層)に向けての内心の自己表現である。カウンセリングは自己表現の場を提供する。
[心の壁を打破しても現実の壁が立ち塞ぐ]
◎反社会的行為を行う外向タイプの者は内省を苦手とする。内省によって心の鎧に気づき、さらにそれらが取り除かれたからといって、すいすいと何でも思うままに進むものでは決してない。
◎外にはやはり現実の壁が彼の前に大きく立ちはだかる。とはいえ、もはや反社会的行為に誘う壁がない(アウトサイダーから社会の一員となった)ので格段と身軽になったとはいえよう。後必要とするのは、忍耐力とこつこつと積み上げる小豆さである。
[中年の危機は、膨張宇宙から反転して、収縮宇宙への方向転換の機会]
◎空の巣症候群・主婦飲酒常習者や実存的危機・中年の危機は、膨張宇宙(物質的自我の拡大)から反転して、収縮宇宙(自我の縮小・意識の拡大)への方向転換への好機である。物質的自我の縮小に逆対応的に精神的自己の拡大がはかられるべきだろう。
[中年は自我の縮小から自己の拡大への転換期]
◎自我の縮小(実存的危機)はコペルニクス的転回の一大転機だが、それ(天空へ連れて行ってくれる気球)に乗れなかった者は自己の拡大を伴わない(物質面にのみしがみつく)自我の縮小だけが進行する。そうなれば、それを食い止める悪戦苦闘だけが待ち構える。
[衰えるのは肉体だけで精神は上昇を望む]
◎上昇から下降に転じるのが中年(主に50歳代)だが、下降するのは肉体部分だけで、精神にとってはもっけの幸いなのである。重石(肉体)が徐々に衰えるために、身軽になって上昇がそれだけしやすくなるのだから。
[精神が肉体に別れを告げて一人旅に出立すべき中年]
◎精神は肉体に「さよなら」をして一人旅におもむくべきだが、ほとんどの人は精神が肉体と同体だ(自分は肉体だ)と勘違いをして、哀れにも肉体とともに下降をたどる。とんだ勘違いである。そうなれば、肉体に伴って精神(脳)も衰退し始める。
[意味への意志が満たされないときには実存的空虚(欲求不満)が起こる]
オーストリアの精神医学者フランクル(1905-1997)が創始した実存分析は、人生の意味と価値を分析する。人は可能な限り多くの価値(望ましい善いもの)を実現しようとする「意味への意志」をもち、それが満たされないときには実存的空虚(精神的欲求不満)が起こる。
[挫折は離陸をうながすゴーサイン]
◎「意味への意志」が心の内部で、遠くを望むかのように頭をもたげるのが膨張宇宙から縮小宇宙へ、肉体的上昇から下降へと転回する中年期である。ささいなことで人生を棒に振った中年男女が多いが、それは次のステップへの誘いだと解して新しくスタートされんことを願う。
◎挫折は離陸上昇(仰ぎ見て目標を持つことがそれらを可能にさせる)の先触れである。必ずそうなるとは限らずそのまま失速する人も数多いが。
[自己実現・精神的健康・創造性など生きる意味や価値を追究する人間性心理学]
◎生きる意味や価値を追究する心理学は人間性心理学と呼ばれ、人間の全体性(丸ごと)や主体性を重視する。この心理学の基本テーマは、自己実現・精神的健康・創造性である。これは精神分析・(ワトソンが提唱した)行動主義(プログラムソフトの創造・再創造)に対する第3の勢力(精神性の重視)として主張された。
[自己実現の中身は各自の自由にゆだねられている]
◎動植物は条件が揃えば野の百合のように必ず自己実現するが、その中身は指定(特殊化)される。人間では精神が重視される(野の百合のような物質的自我の上に精神が位置する)ので、自己実現の中身は事前決定されておらず、自己選択・自己決定(自由・実存)に任される。
[精神は年齢・性別・能力について何ら設定・限定されていない]
◎精神は肉体と違って年齢も、性別も、能力も、性格も何ら設定・限定されていない。時間空間を生きる肉体は歳を重ねるが、(時空を超越する)精神に年齢は刻まれない、ちりあくたは付着しない。精神に立脚する者は年を取らない、老若(創造する若さと豊かな智慧ある老賢者)合わせ持つ永遠の青年である。
[能力は豊かにそなわるが、修せざるには現れず]
◎「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといゑども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」。
◎この文は道元が長い間疑問(すでに仏である衆生が何故わざわざ修行を積まねばならないか)に思い、答えを得たいと願っていたことに対する道元自身が実地体験することによってつかみ取った解答である。
◎「この法」を自己実現能力(潜在的可能性)と読み替えて下さい。法は潜在するので修行(訓練)によって顕在化させねばならない。風性はうちわであおがねばならない。可能態は現実態に移行させねばならない。座敷わらしは育てなければならない。影は明かさねばならない。
[無意識内へ内省して埋もれる潜在的可能性を発掘して育てる自己実現]
ユングは人生を前半と後半に分けた。前半は第一人格(自我)の確立がテーマ・課題で、後半は自我が自らの源泉(無意識)に内向・内省していまだ潜在的可能性として隠れている座敷わらしを探し出して育てる自己実現を目指す。その座敷わらしはかぐや姫に育つか、桃太郎として成長するかもしれない。
[学習期・自我の確立期→自我の成熟期→自己実現期]
◎現代では人生80年なので、ユングのいうように半裁せずに、三段階[1歳から25歳までが学習期・自我の確立期→25歳から50歳までが自我の成熟期→50歳以降は自己実現期]に分けるのがよいのではないだろうか。
◎今女性側からする(自己実現目指した)熟年離婚(とはいえ、地に足の着かない自己実現は不可能である)が急増中である。それに反して、退職後の男性は急にひからびる。女性の時代が大股でひたひたと近づいている。
[単純(一様性)から複雑(多様性)への自己展開が自己実現]
◎宇宙は常に膨張しながら、単純から複雑へと絶えず形成し自発自展する。我々も宇宙の一員として、同じように単純(一様性)から複雑(多様性)へと自己展開しようとする。それが私たちには欲求として現れる、感じられる。その自己展開が自己実現である。実存分析は自己実現すべき価値を心の奥に潜って探求する。
[自己実現しつつある時には十全に機能して、幸福で満ち足りていると感じる]
◎自分の中で顕在的・潜在的にある才能・能力を現実化し豊かに発展させてゆくことが自己実現である。自己実現しつつある時には十全に機能していると感じ、幸福で満ち足りていると感じる。自我成熟中の幸福と自我成熟後(自己探求中)の幸福とは次元を異にする。
◎あなたは幸福ですか。不幸ならばそれは他人の責任ではなく、また他人がもたらすものでもなく、それはあなた自身が不幸をつむぎ出している。

第十七章 自然原理を反映する歴史 [132]自我より大きな存在、時代精神・社会精神・集団精神・集合無意識・霊性

[132]自我より大きな存在、時代精神・社会精神・集団精神・集合無意識・霊性
[武士は各地武士団を形成して政治的勢力を増大させた]
◎武士は平安中期、地方豪族や国司武装化によって誕生し、その集団が全国各地に芽を吹き、12世紀半ば以後、豪族的武士層が中小の在地武士層(地方名主層)との間に、次々と階層的主従関係を結び組織化して各地に武士団を形成しながら武士の政治的勢力を増大させた。
[670余年間武士による武家政治が行われた]
◎保元・平治の乱(平安末期の内乱)で中央政界に進出し、武士団を一大統合した鎌倉幕府の開設から江戸幕府の終焉(明治維新)まで670余年の間政権を掌握した武士階層が武家政治を行った。
[霊性は、個人の内に働く神のいのち・宗教性・仏性・宗教意識・無分別智]
鈴木大拙は「日本的霊性」を使う。霊性は、人間の内に働く神のいのち・宗教性・仏性・宗教意識・宗教心・無分別智である。彼は鎌倉時代に日本的霊性が覚醒したという。その理由として、平安末期の政治的崩壊・文化的頽廃・蒙古来襲をあげる。特に蒙古来襲による国家防衛のための挙国一致が霊性(普遍化・普遍意識)に向かわせたと。
[個人ではなく普遍意識を生きる時代精神]
◎時代(社会・集団)精神・集合無意識・霊性は、自我(個人)を生きるのではなく、自己(普遍)を生きる。大きな存在のために生きる精神が霊性である。その霊性は拡大・統合を求める、より大きな和を要求する。志を高く掲げ続けよう。
[禅は中国より伝来し日本的に開花する]
◎禅は鎌倉時代から江戸時代の鎖国に至るまでの約300年(武士階層の時代)の長期に渡って持続・断続的に中国から渡来して日本的に開花する。殊に臨済禅は学問・文学・工芸(水墨画・庭園・建築物・茶道)など数多くの文化を生み出している。
[武士は禅を尊び、禅は霊性の開発を目指す]
◎禅は霊性の開発を目指し、武士はそのような禅を尊んだ。とはいえ、思想的には儒教の力も大きかったが。武士が長続きしたのは禅による霊性の開発にあるだろう。葉隠がいう「武士道と云は死ぬ事と見付たり」で代表される死の覚悟に徹するとき、自ずから他者を圧倒する精神的強みを生み出すという。死ぬ(もちろん自我的に)、肉体を捨てる(死を覚悟する)ことによって精神が輝き出る。
[外国(欧米)という存在に目を見張った日本は国として完全統一を果たした]
霊性は、私たちの内にある統一力である。大きな脅威を与える存在が目前に現れると、アメーバがするように統一力(霊性)が大きく強く働く。日本が国として心理面でも完全統一を果たしたのは明治維新によってであり、蒙古来襲時がそうであったように外国(欧米)という存在に目を見張ったからである。
[世界はいま統合へ向けて徐々に進んでいる]
◎世界はいま統合へ向けて徐々に進んでいるが、コカコーラに象徴されるように世界の西欧化という形(一様化)である。世界統合の主導権をアメリカが握るか、国連が取るかという点で、アメリカは国連軽視の態度を見せている。今の国連は既得権を持った大国優位に傾きすぎる、国連自体の民主化改革も望まれる。
[日本も世界を舞台に舞い踊ろう]
◎日本はアメリカに次いで高い拠出金を出しているのだから国連に向けてもっともっと主張すべきであろう。戦後60年を経て還暦を迎えたからは新生児日本として世界に羽ばたこう。経済面や文化面に続いて政治面でも世界を舞台に舞い踊ろう。
[世界規模化、世界の一元化の波がすべての国々の上に津波の如く押し寄せる]
◎グローバル(世界規模)化、世界の一元化の波がすべての国々の上に津波の如く押し寄せて呑み込もうとする。全世界は西欧近代文明に覆い尽くされようとする。石油によって自給自足し自律的状況にあるイスラム諸国がそれに抵抗する。
[西欧文明・資本主義経済・英語共通語化のもとに行われる世界統一]
◎世界統一・統合は、西欧文明(文化面)・資本主義経済(経済面)・英語共通語化(言語・情報面)・民主主義(政治面)・自由主義(思想面)のもとにが行われる可能性は大きい。これは相転移現象かもしれない、マイクロソフトのウィンドウズが成したように。しかし西欧中心に統合(一様化)がなされたとしても、その後に地方分権的多様化の波が大きく揺り戻すだろう。

第十七章 自然原理を反映する歴史 [131]意識のデカルト、個人無意識のフロイト、集合無意識のユング

[131]意識のデカルト、個人無意識のフロイト、集合無意識のユング
[意識に重点を置いたデカルトと個人無意識を強調したフロント]
◎精神と物質の二元論を唱えたデカルトは「われ思う」という意識・思考・自我(精神)に重点を置いた。動物を一つの自動機械と見なし、人体部分も同様に精密な機械だという。それに対して、フロイトは「われ感じる」という、意識より下の階層にある個人無意識の重要性を強調した。
[左脳(言葉)を重視したフロイトと右脳(イメージ)を重視したユング]
◎無意識を重視したフロイトであるが、彼は左脳(言葉)をも重視した。言葉重視は、無意識を意識にもたらす(対象化する)のは言語(自由連想法)だと考えたからである。他方ユングは右脳(イメージ)を重視する。無意識内容を直接意識にもたらす夢や絵画は右脳(イメージ)由来だと判断したからである。
◎人の心は、意識(デカルト・17世紀)→個人無意識(フロイト・1856-1939)→集合無意識(ユング・1875-1961)、と三層構造になっており、時代はその順序に従って焦点を当てて来た。これは時代の意識も深まって来たあかしだろう。
[自我・個人無意識を扱ったフロイトと自己・集合無意識を扱ったユング]
フロイトは自我を扱い、ユングは自己を扱った。フロイトは下位システム(個人無意識)と自我の関係を扱い、ユングは自我と上位システム(自己)との関係を扱った。フロイトは自我より下にあって自我にまで到達しないで途中で引っかかる個人無意識(コンプレックス)を自我に引き上げ統合させることを目指した。ユングは自我よりも上にある集合無意識を自我にまでトップダウンさせて取り込むことによって自我を引き上げようとした。フロイトは地下水の汲み上げを、ユングは天からの雨水の汲み置きを目指した。
[無意識を過去に位置づけるフロイトと未来を志向するユング]
◎そういう点では二人はみごとな棲み分けを実行した。もちろん意識してのことではないが。ユングにはフロイトという下敷き(下位階層)があったればこその棲み分けである。フロイトは無意識を個人の過去に位置づける(還元する)が、ユングは無意識を個人の未来(目指す方向・目的・目標)を指し示す(志向する)と見た。
[意識は現在、個人無意識は過去、集合無意識は未来]
◎自分(自我・意識)より下層は過去と感じられ、自分より上層は未来として感じられる、地層と同じように。つまり意識(情報の取り入れ口)は現在、個人無意識(経験)は過去、集合無意識(潜在的可能性)は未来と感じられる。
◎個人無意識は個体発生であり、集合無意識は系統発生(人類の歴史、時に地球の歴史、さらには宇宙の歴史)である。能力が伸びれば、より大きな(高い)階層に接続(アクセス)できるようになる。

第十七章 自然原理を反映する歴史 [130]外国に対する日本の過去・現在・未来

[130]外国に対する日本の過去・現在・未来
[現代日本は情報作り優位の時代に突入]
◎日本は今大きな変革の時期を迎えている。経済・文化面では、もの作り主体から情報作り優位の時代に入っている。これが成功するか否かに日本の将来がかかっている。これは物そのものを売るのではなく、もの作りの知識や技術を売る、あるいは情報自体を売る時期に突入したことを意味する。
[もの作りの上に情報作りが重層する]
◎といっても、もの作りがなくなったというのではなく、もの作りの上に情報作りが重層し、重点がそちらの方に移った、階層が一段階高く(深く)なった。脳幹の上に大脳皮質が乗っかり、それが主体となって人間が出来上がったように。
◎では日本と世界の関係を少しのぞいてみよう。
[軍事面での海外進出→経済面での海外進出→文化面での海外進出]
明治維新によって日本を文字通り統一した明治以降の日本は、1)軍事面での海外進出→戦争(1945年)で挫折→2)経済面での海外進出→バブル崩壊(1990年)で挫折→3)文化面(特に漫画娯楽文化)での海外進出が行われ、現在第三次海外進出が大きく、大規模に進行中である。
[余剰エネルギーは出口を求める]
◎海外への進出はそれ自体が目的ではなく、コップに水が注がれ、そのコップが一杯になっても水が注がれ続ければ、その水はコップからあふれ、周辺に流れ出していくのは自然であろう。余剰エネルギーははけ口を求める。以前のヨーロッパがそうであったように。
◎過去のヨーロッパではそれが植民地主義帝国主義という形を取った。受け皿の事情をどれだけ考慮するかが受け入れられるか排斥(反作用)を受けるかの違いを生む。競争か協同か、一方の勝ちか共存共栄か。
[知識・情報・技術の保護と育成を最重要国策としての外交努力を期待する]
◎技術情報立国日本として技術知識を携えての海外進出を保護・育成・奨励することにおいて大きく立ち後れる。知識・情報・技術の保護と育成を最重要国策として一刻も早く国内外に向けて掲げるべきである。
ワープロソフト「一太郎」(国民的ソフトとして復活を願う)が天下の「松下」に知的特許の侵犯で訴えられ敗訴(高裁で逆転勝利を奪還)したが、これは新しい幕開け(物自体よりも知識・情報優先)を感じさせる出来事であった。
[自分の意見の言える外交能力を高めて欲しい]
◎海外進出には国際外交(交渉能力)が大きくものをいうが、日本の外交は余りにも貧弱である。これは日本が過度にアメリカに寄りかかっているため(依存過多症・アメリカの陰に完全にかき消されている)だろう。「一太郎」と「ワード」の関係がそれを象徴している。
アメリカの「力(競争原理)の外交」に対して、アジア(東洋)の(経済協力と技術・情報協力を中心とした)「和(協同原理)の外交」を前面に押し出す自律外交が望まれる。
[日本はアジアにとって黒船の役割を果たす]
◎かつての日本は、ヨーロッパによる植民地支配に甘んじるアジアの国々に対して、欧米と同じ軍足でづかづかと入り込んで、眠っていた民族意識(感情)を呼び覚ました。アジア統一に挫折した日本はアジアに向けて、経済面でまたもや無遠慮に入り込んだ。
◎それがアジア諸国に経済的成長・発展という火付け役を演じた。「日本はアジアにとって黒船」の役割を担っていたのかも知れない。
[黒船は当時の日本人に強烈な恐怖感を植えつけた]
◎黒船としてアジア諸国を覚醒させ揺り動かした日本自身は欧米の黒船によって三百年の眠り(内面専念)から叩き起こされる。幕末に来航した欧米列強の軍艦、特にアメリカの東インド隊司令官ペリーの来航(1853年浦賀に入港して開国を迫る)後、それは列強の日本への領土的野心の象徴と映り、当時の日本人に強烈な恐怖感(トラウマ化した)を植えつけた、いまだにそれが完全に癒えたとは言い難い。
[外交はその国の顔である]
◎経済面で欧米と対等になったとは丸で実感がない、特に日本の外交姿勢を見ていると。外交はその国の顔(外的人格)であり、外交姿勢を見ればその国が分かる。日本の政治家にはその認識(世界を視野に入れた政策作り)が弱いように見受けられる。まだそういう面では若いということか。
[苦難との格闘が人を偉大にする]
◎黒船来航は、日本丸にとって巨大氷山との遭遇である。寒流と暖流の出合う潮目はプランクトンが大量に繁殖するためにさまざまな魚が集まり一大漁場となるが、黒船来航(西洋文化との遭遇)によって、日本には次々と時代精神を生きた偉人が誕生していった。苦難との格闘が人を偉大にする。格闘が相手の能力を吸収する最高の道である。敵を知り己を知らば百戦危うしからず。

明治維新という名の洗脳

明治維新という名の洗脳

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第十七章 自然原理を反映する歴史 [129]難産の末に生まれた西洋近代化

[129]難産の末に生まれた西洋近代化
[新しいものは古いものの挫折によってもたらされる]
◎足早に一覧したヨーロッパの近代化をもう少し詳しく見てゆこう。新しいものは古いものの挫折によってもたらされる。新しい芽は挫折の裂け目から生えて来る。散逸構造もそのようにいう。
◎近代化は難産の末に生まれた。中世末期のヨーロッパは危機的状況に陥る。異端者を追及・処罰するためなされた宗教裁判は13世紀以降南ヨーロッパを中心に広く行われた。農民一揆は地位向上を掲げて頻繁に繰り返された。現代日本と同じように都市の人口過剰と農村の過疎化現象が起こった。14世紀にはヨーロッパ全域にペストが大流行した。また教皇側と皇帝側とが争い、皇帝権力が衰退し、その(統合の核の崩壊)結果諸侯が乱立し、諸国では絶え間なく戦乱が発生した。
[依存から自律への動きは必然の流れ]
◎中世末期のヨーロッパ全土は全身傷痍の状態であった。近代の幕開けは暗いトンネルをくぐらなければならなかったが、トンネルの向こうは白い雪国であった。
◎近代は、市民(中心)社会(下位階層)と資本主義(上位階層)の時代である。西洋の近代化は、教会からの解放、つまり教会の持つ知識への依存から自前の知識(科学)を拠り所とする主体性の確立である。依存から自律への動きは必然の流れである。
[宗教への囚われからの解放と個性・合理性・現世利益を肯定する価値の創造]
ルネサンス(文芸復興・文化革新運動)は、14〜17世紀、都市型社会の形成と商業(中心は外国との貿易)活動発展による自立した市民階級の繁栄を背景にイタリアに始まりそこから西ヨーロッパに拡大した。
ルネサンス人文主義・人間中心主義によって、宗教観(神による人間支配)に囚われずに人間や自然を見る人間性解放をめざし、個性・合理性・現世利益を肯定する新しい価値の創造を目指す。それ故に、キリスト教文化とは異なる古典文化(古代ギリシア・ローマ文化)の復興という形式をとり、それが西欧近代化の思想的源流となる。底流に宗教(による支配)への反発が潜む。
[中世の教会(神)中心主義から近代の現実的人間中心主義へと離脱]
◎市民階層形成によって中世の教会(神)中心主義から近代の現実的人間中心主義へと離脱しつつあった。ドイツのルターは、神の許しについて悩み抜き、そこから人の意志(自力)をこえたキリストの愛(他力)の現存を確信して、善行(自力)によらずとも信仰(他力を頼む心)のみで救われると個人の信仰を強調した。
[宗教改革と社会変革とによって近代ヨーロッパ社会成立へ向かう]
◎1517年ルターが95か条の意見書を発表し、教皇レオ10世の免罪符販売を攻撃した。それをきっかけに、16世紀の西ヨーロッパ各地に宗教運動が繰り広げられた。免罪符は、教会の有力な財源であり、堕落した教会によって安易に大量に発行された。どこかの国の国債発行のように。
◎人は信仰によってのみ救われ、聖書のみが神の国を指し示すと主張して、ローマ教皇の権威を否定し、権威と伝統を重んじるローマ-カトリック教会から分離して、聖書と信仰を拠り所とするプロテスタント教会を設立した。ここでもある意味親(カトリック教会)からの子(プロテスタント教会)の独立宣言的な面もあろう。
◎各都市に多くの宗教改革者が輩出して、社会変革と呼応して、近代ヨーロッパ社会成立を目指す旗頭に立った。これは新しいぶどう酒を収める新しい革袋(改革・革新)を必要としたということだろう。
[混乱から秩序と安定を求める]
◎中世では封建制度が、近世(16世紀から18世紀までの二世紀間)には(領主貴族階層の弱体化と市民階層の未成熟の狭間に生まれた)絶対主義が支配した。封建制度の崩壊によって生まれた混乱から、秩序・安定・統一を求める領主貴族や農民・商人の要求が後押しとなり絶対主義が誕生した。
[現状維持階層と現状打破市民との対立]
◎しかしいったん秩序・安定・統一が回復すると、国民の自律を認めず、依然と続く身分制度と特権階層の保持を続ける絶対主義王制(トップ階層)とそれらの特権的支配の打破を目指す新興市民(主に中間階層)との間に対立が生じた。
[自由・平等を根底にした中央集権的統治機構をもつ近代国家が生まれた]
封建制度という古い制度を引きづった絶対主義(王制)が崩壊した後に、人間の自由・平等を根底に置き、討議の場である議会を中心に据えて、行政機関と司法機関と軍隊制度とが整備されていった。そしてそれらを一局集中で管理する中央集権的統治機構をもつ近代国家が生まれた。しかし安定はいつしか惰性へと道を譲る。

第十七章 自然原理を反映する歴史  [128]歴史は過去に現在を積み上げて成長・発達する

第十七章 自然原理を反映する歴史
[128]歴史は過去に現在を積み上げて成長・発達する
[現在は自分の中に過去のすべてを畳み込む]
◎歴史という観点でいえば、現在は自分の中に過去のすべてを畳み込む。個体発生は系統発生(過去からの遺産)を繰り返す。個体発生(個人)の過程の中で系統発生(普遍)をすべて展開する。故に過去(系統発生)を背負わない歴史(個体発生)はない。
◎歴史は繰り返すといわれるが、同じことの繰り返しではなく、刻々と新しいことが付け加わるので、らせん状に拡大しながら繰り返して循環する。
[キリスト教を親と、諸国を子どもたちと見なせるヨーロッパの歴史]
◎ヨーロッパの歴史は、キリスト教(特にカトリック教会)を親として、西欧諸国を子どもたちと見立てれば面白い姿が浮かび上がる。当然のことではあるが、話は一世紀(キリスト誕生)に始まる。とはいえ、キリストもヨーロッパもそれまでの歴史を背負っているが。
ニーチェが「神は死んだ」と宣言した20世紀初頭までの1900年間を特に知識の獲得面に焦点を当てて概観しよう。
[中世は親の庇護のもとに依存する子どもたち]
キリスト教(親)はあれよあれよという間(1〜5世紀)に成人した。それはユダヤ教を基礎(旧約聖書は人類の成長記録とも読み取れる)として持つからである。一からの積み上げではなかった、すべての歴史がそうであるように。
キリスト教が育つ土壌・環境はローマ帝国であった。それは395年に東西に分裂し、その内の西ローマ帝国は早くも476年に滅亡した。その前、392年には、キリスト教は唯一の国家宗教になるほどに成長していた。
◎他方子どもたち(西欧諸国)は中世(5〜14世紀/西ローマ帝国滅亡からルネサンスまで)の間親の庇護のもとで依存(信仰と従順)状態にあった。中世社会は、神という存在によって、秩序が形成され維持されてきた。
[全体を直接支配するまでに至らない独立権力者たちのパズル的集合]
◎9世紀から13世紀までの西欧においては、直下の家臣だけを直接支配する限定的支配権しか持たない国王を最高階層とする多数の独立権力が封建的主従関係を結び、その関係が網目状のピラミッド形というトーナメント形式のようにキリスト教という思想の下に組織化されていた。これは日本の平安から室町時代の状況によく似ている、日本では仏教がその役割を果たしたが。
◎これは神経細胞が全身に散らばり、網目状に張り巡らされた散在神経系に包まれ、機能的分担がなく、刺激に対して単純に反応する腔腸動物ヒドラや、あるいは、神経細胞の小集団が線上にじゅずつなぎになった神経節が地方分権的に体を制御するミミズを連想させる。
[子どもたちはルネサンスによって自立に目覚め、自律に向けて成長し始める]
◎子どもたちは「ルネサンス」(14世紀)によって、親(キリスト教)以外からの知識をどんどん獲得してゆき、自立(個)に目覚め(都市は独立権力者の封建領主から自立し)、自律(市民自身による自治)に向けて成長し始める。
[地理上の発見時代はヨーロッパに視野拡大をもたらす]
◎15世紀、バスコ・ダ・ガマの東方航路発見、コロンブスの新大陸発見、マゼランの世界一周など「地理上発見時代」(これはヨーロッパから見ての命名)は、視野の拡大となり、キリスト教以外の思想に出会う。その後にやって来る宗教改革(16世紀)は親に対する思春期(反抗期)の反抗(完全独立とまでいかない)と見なせる。
[知識(文化)と産業技術(経済)が縦糸横糸となって変革と発展をもたらした]
◎イタリア・ルネサンスは,16世紀中期にほぼ終結を迎えた。15〜16世紀のヨーロッパは技術面での革命時代となり、動力機械の発明とその応用(機械化・動力化)によって生産技術は画期的変革を受けた。デカルト(17世紀)・ニュートンガリレオなどによる自ら発見した自然科学的知識も確立した。
[産業革命は生活のすべての面に変革を招来する]
◎18世紀半ば頃、イギリスで最初に起こり、その後欧米諸国へと波及した産業革命によって、経済的基盤が整えられてゆく。今までの手工業的生産工場は機械制大工場へと大きく発展し、それが生活のあらゆる面、社会生活、経済活動に変革・発展をもたらした。
[親に対する独立宣言をして完全自立する方向へと進んだ]
◎青年期の決定打となるニーチェの「神は死んだ」(20世紀初頭)は親に対する独立宣言といえる。これは教会が持つ知識に頼るのではなく、自らの知性によって完全自立する方向へと進んだことへの象徴的表現である。
◎近代は、ルネサンス宗教改革、一連の科学技術改革によって神殺しが断行された。このことによって、世界を人間の手に収めることが成し遂げられたが、神という秩序体現者の死によって、利己的利益追求に走った結果、再度秩序形成維持を如何にするかの問題が持ち上がった。
[科学的知識が積み上げられ、経済基盤も確立し、神からの完全独立を果たした]
◎近代の幕開け的出来事はルネサンス(14世紀)と地理上発見(15世紀)と宗教改革(16世紀)とで、宗教に影響されない科学的知識が積み上げられ、産業革命が起こって経済基盤も確立し、神からの完全独立を果たした。
[今や親(宗教・哲学)と子(科学)の断絶が深刻な問題]
◎所が、今や親(宗教・哲学)と子(科学)の断絶が深刻な問題となる。声高に叫ぶ子どもの声に、親のか細いささやきはかき消されがちである。弁証法的に進めば、ここから後必要なことは子どもの自立を尊重する親(科学をさらに大きな高い視点から俯瞰する目)との和解である。
[宗教性・宗教心の再来を願う]
◎私がこんなことを言っていいのかどうか迷うのであるが、ニーチェが死なせた神(といっても特定の神ではない)をよみから帰らせたいという気持ちを持っている。というよりも、私たち自身が遠ざけてしまった神にもう一度再会すべきではないかと提案したい。といっても、私は既成のどのような宗教に対しても信仰心は全く持ち合わせていない。